川尻(かわしり)は、かつては「河尻」と書き、藩政時代には肥後藩の物流拠点として、大いに栄えました。現在、熊本港湾空港整備事務所が川尻にあるのも、なにかの縁なのかなあと思ったりもしますが・・・。今回は、この川尻の船着き場をご紹介します。
古くは鎌倉時代、川尻実明が肥後川尻城を築いていたとき、川尻の津を整備させたのがはじまりと言われてします。
その後、天正16年に肥後藩に入国した加藤清正公によって、肥後藩の物流拠点として整備されていきました。御船手(おふなて)といわれる水軍基地も作られました。
河尻の船着場は、通称「御蔵前」(地元では「おくらんまえ」と発音)と呼ばれていました。それは加藤家が改易され、細川公の治世となったときに、川尻御蔵と呼ばれる年貢米の貯蔵設備が作られたからです。9棟の米倉からなり、20万俵の収容能力があったということです。細川氏は川尻を肥後五ケ町の1つに指定し、町奉行や津方会所(いわゆる税関)、御作事所といった重要設備を川尻に整備していきました。
延長150mにもなるこの船着場は、潮の満ち引きに対応するため、13段の石段が作られました。
ちょうど現在のJR在来線高架橋の下あたりには殿様専用の船着場があって、そこだけいい石が使ってあります。
当時の船着場としての痕跡が随所に残されています。川の水が氾濫しそうなときは、ここに板を渡して堰き止めたのかと思われます。
このように、水の流入防止の板へのつっかえ棒をいれる穴と思われるものが残っています。
船着場入り口。緑川の堀替え(河川直線化工事)により川筋が浅くなったのに加え、鉄道輸送・陸上運送の時代に移り変わっていくにつれ、徐々に船着場は衰退していきました。
これは熊本県ではじめて設置された構造物なのですが、なんだかわかりますか?
正解は公衆トイレです。いまでは当然使われておらず、公園を掃除するための道具がいれられていました。
川尻の船着場は、かつては海外交易の拠点としても栄えました。中国の明の時代の地理書に「開懐世利」(かわせり)として川尻の地名が登場することからもうかがいしれます。
船着場の片隅には、日露戦役記念碑もありました。
川尻はこの船着場のほか、かつての薩摩街道(薩摩藩の参勤交代路)の宿場町の名残を残す、歴史ある建築物や史跡などが数多く残っているところです。歴史の流れを感じたい方にはぜひ、遊びに行ってみてはいかがでしょう。