天草に伝来した南蛮文化に存分にひたれる施設としては、なんといっても天草コレジヨ館がお薦めです。
日本初の活版印刷による天草本の数々や、それを印刷したグーテンベルクの印刷機、南蛮船模型、西洋古楽器の複製や、天正少年使節団の足取りをたどるビデオなどを見ることができ、16世紀当時の日本人が、南蛮文化にかぶれた気持ちがよくわかる感じがします。
南蛮船模型。
天草・河浦には1591年から1597年にかけて、キリスト教の宣教師を養成するための大神学校、コレジヨ(コレジオ)がありました。コレジヨはポルトガル語で、英語のカレッジにあたる言葉で、学校という意味です。
コレジヨはもともと、キリシタン大名たる大友宗麟のお膝元、豊後国府内(いまの大分県大分市)のあたりにありました。ところが府内は豊薩合戦による島津家久の焼き討ちにより壊滅したため、島原の加津佐(いまの長崎県南島原市)に移されました。
加津佐のコレジヨも、豊臣秀吉が明国征伐のために名護屋に赴くとの布告を受けて、豊臣家の目の届かない天草に移されたのでした。
天正遣欧少年使節がヨーロッパから持ち帰った、グーテンベルクの印刷機(複製)。ガチョウの革で作られたスタンプにインクをつけ、そのスタンプで活版にインクをのせていきます。そして、紙を印刷機に固定し、プレスする仕組みです。
1597年にコレジヨが長崎に移転したときに、印刷機も長崎に移されました。日本では20年間ほど使われましたが、最終的には宣教師の国外追放のさいに、印刷機ごとマカオに送り返されました。
グーテンベルクの印刷機により刷られた、グーテンベルク42行聖書。ほとんどのページが42行の行組みであることから、その名がつきました。
天正遣欧少年使節の衣装。セミナリヨから選ばれた伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4名が使節となりました。
少年使節たちは日本に帰郷するころ、日本では豊臣秀吉による伴天連追放令がでていました。そして、日々強さを増していくキリスト教弾圧のなかで若くして命を落としていきますが、千々石ミゲルだけがのちにイエズス会を脱会し、キリスト教弾圧側にまわったことで知られています。(しかし、最近見つかった千々石ミゲルのものと見られる棺からはロザリオが見つかり、実は棄教していなかった可能性がでてきたとのこと。)
少年使節たちは西洋音楽も学んできました。日本に戻ったあと、聚楽第にて豊臣秀吉の前で演奏も披露しています。豊臣秀吉はたいへん珍しがり、何度もアンコールしたほどだとか。
なお、2階はキリスト教やコレジヨとはまったく関係がない、世界平和大使人形の館となっております。
日本初の女性代議士である園田天光光氏が、平和の使者である人形を世界中に贈ろうと、国際児童年に世界100か国に各国の大使夫人を通じて一対の市松人形を贈ったことがはじまりで、その返礼で57か国から届いた人形117体がこちらに展示されているとのことです。
郷土の歴史と『平和』について学べる施設となっていますので、ぜひみなさん訪れてみてくださいね。