味取観音堂(熊本市北区植木町)は、自由律俳句の俳人、種田山頭火ゆかりの寺院です。大正14年、42歳のときに、ここ味取観音堂の堂守になりました。
”大正十四年二月、いよいよ出家得度して、肥後の片田舎なる味取観音堂守となつたが、それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいと思へばさびしい生活であつた。”(種田山頭火歌集「草木塔」より抜粋)
種田山頭火(たねだ・さんとうか)
山頭火は本名種田正一、明治十五年、山口県防府市に生れた。早稲田大学文科を中退し、父と共に家業に従事したが失敗し、それから流浪の生涯が始まった。熊本に来たのが大正五年、彼が三十五才の時であった。酒にひたって家業を顧みず、上京したり帰熊したり奔放な生活を続けていた。大正十三年、出家して禅僧となり翌年、味取観音の堂守として、読経と句作の独居を続けた。観音境内の句碑に刻まれた『松はみな枝垂れて南無観世音』の句は、当時の作である。しかし、ここも永くは続かず一年二ヵ月にして去り、以来、放浪生活を送り昭和十五年十月十一日、四国松山市の一草庵で波瀾の生涯を閉じた。五九才であった。
山頭火は荻原井泉水の俳誌『層雲』によって自由律の俳句をよんだ詩人で『鉢の子』をはじめ七句集やぼう大な日記類があり、「山頭火全集」まで出版されており、日本の俳句史上特異の地位を占めている。平成一三年十月二十二日 植木町教育委員会 (現地案内板より)
味取観音堂(曹洞宗瑞泉禅寺)。種田山頭火の堂守生活は長くは続かず、大正15年、43歳のときに寺を出て、雲水姿で流浪の旅にでて、旅先から『層雲』に投稿を続けたといいます。
お堂のわきに、さらに上のほうにある神武神社へつづく小道があります。
「松はみな枝垂れて南無観世音」の句碑。
種田山頭火が生きている間に建てられた句碑としては、唯一のものだということです。
瑞泉禅寺に設置された投句箱。種田山頭火ゆかりのお寺さんらしいですね。
せっかくですので、瑞泉禅寺の住職さんに、お話をすこし伺ってみました。
なんでも、今年11月26日に「種田山頭火と味取観音瑞泉寺紅葉まつり」が行われるとかで、臨時駐車場が設けられるなど、準備が進められているようでした。種田山頭火の供養祭(当日10時から)や、野点、作品展示などといったさまざまな催し物があるそうですよ。