二重峠の石畳(豊後街道)

 

二重峠(ふたえのとうげ)は、熊本県大津町瀬田と阿蘇市赤水的石の間にある、加藤清正公が築いたとされる街道です。

 

現存する石畳では国内最長といわれる1.6kmに渡って、幅3mの石畳が続きます。加藤清正公は、この街道を用いて豊後鶴崎の港から大坂への往復をしていたようです。

 

 

二重峠駐車場に車を止めて、さあ登ろうかと思っていたところ、なんだか草が人工的に刈り込んであるようにも見える・・・。

 

あ!くまモンがいる!その上のは、ハローキティですね。車を止めて、わざわざこれの写真を撮りにきていた人がいました。駐車場は大型バスでも駐車できるほどの広さがありますので、駐車場の不安はありませんよ。

 

 

豊後街道-参勤交代の道(往還)

江戸時代の街道は、商人による物資の輸送、遊学、寺社参詣などの旅人の通行路となったのはもちろんですが、何よりも大名の参勤交代や幕府の巡検使の諸国視察などのために整備された歴史があります。

 

54万石の細川藩の場合、参勤交代の人数は、少ないときで600人、多いときには2700人にもなりました。

 

参勤交代の行列は、江戸から東海道を下り大阪に出て、そこから海路 瀬戸内海を通り、大分県の鶴崎に上り、再び陸路で野津原、久住(鶴崎、野津原、久住は肥後藩飛び地)を通り、大利(産山村)坂梨(旧一の宮町)内牧(旧阿蘇町)を経て、的石に出て、二重峠を超えました。

 

ここ坂の下から、二重峠までの道は険しく、また、火山灰土であるために、雨が降るたびに道路が傷みます。そのために、九十九折れ(つづりおれ)の急坂の道に石畳が敷きつめられています。

 

石畳には「岩坂村つくり」と刻まれた石が残っていますが、岩坂村(大津町)はここから12キロ(3里)離れた村で、この道造りに広範囲の村々から農民がかりだされたことを物語っています。

 

入念に敷きつめられた石畳を歩くと、農民の苦労がしのばれます。この石畳を上りつめると、はるかに熊本を望むことができます。江戸から300里の道程をふりかえり、帰国の喜びをかみしめ、石畳を踏みしめて登ったことでしょう。

文化庁・阿蘇市(現地看板より引用)

 

 

二重峠石畳の道沿いにある菅原神社。

 

このへんは西南戦争時に激戦地になった場所でもあり、付近に台場跡が残されています。台場というのは、野戦築城(野戦を有利に運ぶために築かれた構造物、要塞)のことで、主に砲台陣地のことを指すことが多いように思います。

 

 

勝海舟と坂本龍馬もこの二重峠を通ったそうですよ!この二重峠を越えた勝海舟は、眼前の光景を「阿蘇の脚甚だ広く、田野あり」と詠んだそうですが、足腰に不安がありますので、踏破はやめておきました・・・。

 

修復されている部分と、当時の石畳がそのまま残る部分があるようですね。

 

 

史跡坂下お茶屋跡。すぐ近くにお客屋跡もあり、当時の旅人の休憩スポットだったのでしょうね。

 

 

坂の下お客屋跡。当時の旅人の休憩所とありますが、現在その痕跡がわかるものが何も見当たりませんでした。

 

 

石畳のかたわらで、旅人を見守るがごとくそびえ立つ巨木がありました。これは参勤交代の檜という市指定文化財(天然記念物)で、樹齢500年ほどの檜です。

 

上部にスギが着生していて、一本の樹に二種類の葉が繁っています。

 

 

現代ではもはや道路として使われることのなくなった道ですが、いまでも朽ちることなくこうして残されていることがありがたく思います。当時のお殿様と同じ風景をぜひご覧になってみてはいかがでしょうか。