足手荒神(あしてこうじん)・甲斐神社

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奉納された手形・足形。本殿が被災したため、テントで拝殿が作られています。

 

足手荒神は熊本を中心として、福岡、大分などで信仰されている、手足の神様のことです。手足の病気や怪我の治癒・回復を祈願するもので、神様に手形・足形などを奉納します。

 

特にこちらの甲斐神社は、足手荒神信仰の総本山と言われているもので、九州各地に分社が存在しています。

 

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甲斐神社の祭神は、甲斐宗立(かいそうりゅう)公と、その父、甲斐早雲(かいそううん)公をはじめとした甲斐一族となります。そのなかでも足手荒神とされているのが、甲斐宗立公です。肥後国人一揆で破れた御船城主であった彼は、この嘉島町上六嘉に落ち延び、里人より手厚い手足の治療を受けたとのことです。これにいたく感銘をうけた甲斐宗立公は、その後、以下の言葉を残して亡くなったとされています。

 

魂魄この世に留まり子々孫々を見守り、手足に苦しむ者を救いやるであろう

 

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手形足形授与所

 

 

こちらに筆記具が用意されていますので、授与された手形・足形に住所、氏名、年齢、願い事を書き、手形・足形で手足をさすり、拝殿に納めることとなります。

 

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実際に拝殿に積み上げられた手形・足形。崩れんばかりに積み上がっています。それだけ、手足の病に悩み、甲斐神社の御利益を受けたいという人が多いということなのだろうと思います。

 

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板状のものだけでなく、このように立体的な彫刻を施された手足もありましたが、これは奉納されるものではないようですね。

 

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この甲斐神社も、熊本地震により被災したため、寄付を募って再建を目指しているとのことです。崩壊した拝殿の写真がとても痛ましいです。

 

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甲斐神社の由来。ことのはじまり、甲斐宗立が手足を怪我をする原因となった、肥後国衆一揆のことを丁寧に解説されています。豊臣秀吉による九州征伐後、肥後藩主となった佐々成政が、着任早々に太閤検地をはじめたことが、国衆(国人)の反乱を招いたとされていますね。その当時の肥後藩は国衆の力がとても強く、難治の国とされていました。秀吉はそのことを知っていたので、成政には「三年は検地はするな」と言っていたそうですが…。

 

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手水場

 

スポーツ選手なども訪れるそうですよ。手足に不安を抱える方は、手形足形を奉納されてみてはいかがでしょうか。