熊本市西区の白川県庁跡・古町公園

 

熊本県北部を、白川県とよんだ時代があることをご存じですか。いまの熊本県は、かつて存在した白川県と、八代県が合併してできたものなのです。熊本の人でも知らない人のほうが多いのではないでしょうか。

 

熊本市西区・二本木団地のそばの古町公園には、ひっそりとかつての県庁跡が残されています。

 

※廃藩置県のあと、熊本県が発足するのですが、水害により二本木に移転したときに白川県と改称されました。その後、八代県と合併し、再度熊本県と改称されたという経緯があります。

 

 

二本木というと、熊本の人には、かつての遊郭街というイメージが強いと思いますが(※)、昔から政治の拠点があった場所なんですよ。二本木遺跡群の調査によれば、奈良時代には何らかの役所があったと推定されており、平安時代には飽田国府が置かれていました。飽田国府の国司としては、清原元輔(任期:986~990)がいまして、桧垣との交友記録が残されています。

※遊郭街だったころの名残りで、「一龍閣」というソープランドが最近まで営業をしていました。二本木最後の風俗店でしたが、熊本地震で全壊しました。

 

熊本市には、そのものスバリ「国府」という地名の町がありますが、そこが肥後・熊本で、最初の国府「託麻国府」が置かれた場所と言われています。その後、益城国府(益城郡城南)に移転し、最後にこの飽田国府に移ってきたとされています。飽田国府の推定位置は、いまのKAB(熊本朝日放送)のあたりで、かつては鉄道病院がありましたね。

 

 

明治天皇行幸白川県庁跡

明治四年(一八七一)、廃藩置県によって熊本県が置かれ、熊本県庁が発足しました。

熊本県庁は、最初、旧花畑邸に置かれましたが、一旦、城内二の丸に移った後、明治五年六月、ここ二本木に新築移転し、このとき県名も白川県に改められ、白川県庁として発足しました。

同年六月、明治天皇西国御巡幸のとき、熊本藩の献納した軍艦(龍驤・りゅうじょう)を御召艦とされたことから熊本に御立寄りになり、ここにあった白川県庁に入御されました。

天皇の行幸は、歴史始まって以来の出来事であり、県を挙げての歓迎に沸き立ったといいます。

明治六年、八代県が熊本県に統合されたため、白川県庁は手狭になり、そのうえ白川の度々の水害に悩まされたため、明治八年、古城に移転し、翌年県名も再び熊本県と改称されました。

 

 

明治天皇臨幸碑。もともとは白川堤防にあったもので、白川改修工事のとき、この古町公園に文字盤の部分のみが移されました。