宇城市不知火町・松合地区は、”松合白壁土蔵群”と呼ばれる、かつての醸造と漁業で栄えたときの町並みが残されています。
なぜ白壁土蔵の建物が、この地区で多く見られるのでしょうか。
地形や建物の密集により、江戸時代に連続大火に見舞われたのです。大火後の街造りを主導した惣庄屋により、町筋の建築物は火災に強い土蔵・白壁のものへ改修されていったのです。道をひろげて防火道路( 火除道 )を作るなど、計画的な防災都市が形作られました。
過去の記録をひもといてみますと、このような記録が残っています。1826年~1854年にかけてが連続大火といわれるものです。仲区の薬師堂も火災焼失しています。
1781年 火災 1000戸焼失
1826年11月 火災 229戸焼失
1828年12月 火災 269戸焼失
1830年 4月 火災 335戸焼失
1834年 火災 38戸焼失
1854年 9月 火災 141戸焼失
松合地区は、江戸時代より宇土半島南浦の津として漁業で繁栄してきました。良質な湧水と温暖な気候に恵まれていたため、醸造業も盛んで、江戸時代には4軒の酒造家がありました。
酒造家は廻船(海運)や相物(海産物加工品)問屋も手がけて財をなしたそうです。
松合郷土資料館は新型コロナウイルスの影響で一時閉館となっていました・・・。緊急事態宣言前でしたが、いちはやく予防措置をとられたようです。また、あらためて訪れたいと思います。
※新型コロナウイルスの影響により、ここ2ヶ月間は取材を中止しております※
明治維新後などは出船入船千艘といわれ、天草や島原、五島や薩摩からも魚が水揚げされていましたが、鉄道三角線が開通し、際埼港(現在の三角港)が竣工したことによって、急激に衰退していきました。
また、もう1つの要の産業であった醸造業も、農地開放政策により衰退していくことになりました。
御船千鶴子生家跡も、この松合地区の一角にあります。千里眼の持ち主として知られる人物で、三井合名会社の依頼で大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱を発見しました。このときに得た謝礼は2万円、現在の貨幣価値でいうと約2000万円とのこと。
その場所を訪ねてみましたが、看板のある場所には駐車場が広がるのみで、説明文も何もありませんでしたので、よくわかりませんでした。
白壁土蔵の建造物は地元有志の努力により多く残されており、現在も店舗や住居として使用されていることから、手入れもされているようです。
今回は開いてませんでしたが、訪問時はまず松合郷土資料館 を訪ねてみられるといいと思います。