人吉城跡(国指定史跡)

水ノ手門西側長塀

 

昭和36年に国指定史跡となった人吉城は、相良氏初代当主の相良長頼が築いたとされる名城で、別名を繊月城といいます。

 

現在では当時の建造物は残っておらず※、石垣と土塁だけで、あとは記念館が建てられていますが、それだけでも見る価値があると思わせる規模です!!2万2千石の大名のお城と思えぬ広さです。日本百名城の1つに選定されています。

※平成15年度から平成19年度にかけて行われた、史跡等総合整備活用推進事業により、塀や櫓、石垣などの修繕や復元が行われました。

 

間米蔵跡

 

相良長頼が鎌倉時代に人吉の地頭として赴任して以来、35代670年の長きに渡って在城しました。

 

長頼が人吉に下向した当時、人吉城は平頼盛の家臣である代官・矢瀬主馬佑が城主でしたので、長頼は城の明け渡しを命じました。しかし長頼は城を明け渡さなかったため、大晦日に鵜狩りと言って誘い出し、殺害したと言われています。正治元年(1199年)の正月に長頼が入城し、以後は相良氏の居城となりました。

 

人吉城の武者返し

 

槹出工法(はねだしこうほう)を用いた武者返し。西洋式築城技法と言われていて、西洋式城郭では採用例はあるのですが(五稜郭、龍岡城など)、旧来の城郭で採用されたのは人吉城のみです。

 

 

相良長頼の築城とはご紹介いたしましたが、山城としての本格的な築城は12代当主の相良為続のときになります。

 

 

そして、いま見られるような石垣造りの近世人吉城としたのは20代当主の相良長毎と言われていて、豊後から石工を招いて改修を行いました。

 

 

久々に人吉城にのぼりましたが、なかなかにハードで、運動不足の身にはこたえます・・・。ご覧のとおり、勾配が急なところや、滑りやすいところもありますので、必ずスニーカー着用の上、長袖長ズボンで登られるようにお願いいたします。

 

堀合門(復元)

 

人吉城はほとんど他家に攻められたことがないのですが、家督問題で内訌が生じていた1526年、日向真幸院を治めていた北原氏に攻められ、策を弄し撃退したのが唯一の出来事と言われています。

 

中御門跡

 

35代670年にわたって相良氏が人吉城主たりえたのは、歴代当主の立ち回りの見事さがあるのかと思います。1600年の関ヶ原の戦いでは、当初は石田三成方(西軍)に従軍し、伏見城などを攻めたのですが、石田方が敗れるとみると徳川方に寝返り、戦後、徳川家康より2万2千石の領地を安堵されることとなります。

 

本丸への登城道

 

本丸には本来は天守が築かれるものですが、人吉城では天守のかわりに護摩堂が築かれました。

 

 

護摩堂があったであろう本丸。現在では人吉城下町が見下ろせる展望所のような場所になっていました。

 

「城跡なんて見てもね・・・」という人も、だまされたと思って一度登ってみて欲しいと思います。建造物が残っていないためになおのこと長い歴史に思いをはせられる、浪漫を感じさせる素晴らしい史跡であると思いました。