天草コレジヨ館

 

天草に伝来した南蛮文化に存分にひたれる施設としては、なんといっても天草コレジヨ館がお薦めです。

 

日本初の活版印刷による天草本の数々や、それを印刷したグーテンベルクの印刷機、南蛮船模型、西洋古楽器の複製や、天正少年使節団の足取りをたどるビデオなどを見ることができ、16世紀当時の日本人が、南蛮文化にかぶれた気持ちがよくわかる感じがします。

 

 

南蛮船模型。

 

天草・河浦には1591年から1597年にかけて、キリスト教の宣教師を養成するための大神学校、コレジヨ(コレジオ)がありました。コレジヨはポルトガル語で、英語のカレッジにあたる言葉で、学校という意味です。

 

コレジヨはもともと、キリシタン大名たる大友宗麟のお膝元、豊後国府内(いまの大分県大分市)のあたりにありました。ところが府内は豊薩合戦による島津家久の焼き討ちにより壊滅したため、島原の加津佐(いまの長崎県南島原市)に移されました。

 

加津佐のコレジヨも、豊臣秀吉が明国征伐のために名護屋に赴くとの布告を受けて、豊臣家の目の届かない天草に移されたのでした。

 

 

天正遣欧少年使節がヨーロッパから持ち帰った、グーテンベルクの印刷機(複製)。ガチョウの革で作られたスタンプにインクをつけ、そのスタンプで活版にインクをのせていきます。そして、紙を印刷機に固定し、プレスする仕組みです。

 

1597年にコレジヨが長崎に移転したときに、印刷機も長崎に移されました。日本では20年間ほど使われましたが、最終的には宣教師の国外追放のさいに、印刷機ごとマカオに送り返されました。

 

 

グーテンベルクの印刷機により刷られた、グーテンベルク42行聖書。ほとんどのページが42行の行組みであることから、その名がつきました。

 

 

天正遣欧少年使節の衣装。セミナリヨから選ばれた伊東マンショ千々石ミゲル中浦ジュリアン原マルティノの4名が使節となりました。

 

少年使節たちは日本に帰郷するころ、日本では豊臣秀吉による伴天連追放令がでていました。そして、日々強さを増していくキリスト教弾圧のなかで若くして命を落としていきますが、千々石ミゲルだけがのちにイエズス会を脱会し、キリスト教弾圧側にまわったことで知られています。(しかし、最近見つかった千々石ミゲルのものと見られる棺からはロザリオが見つかり、実は棄教していなかった可能性がでてきたとのこと。)

 

 

少年使節たちは西洋音楽も学んできました。日本に戻ったあと、聚楽第にて豊臣秀吉の前で演奏も披露しています。豊臣秀吉はたいへん珍しがり、何度もアンコールしたほどだとか。

 

 

なお、2階はキリスト教やコレジヨとはまったく関係がない、世界平和大使人形の館となっております。

 

日本初の女性代議士である園田天光光氏が、平和の使者である人形を世界中に贈ろうと、国際児童年に世界100か国に各国の大使夫人を通じて一対の市松人形を贈ったことがはじまりで、その返礼で57か国から届いた人形117体がこちらに展示されているとのことです。

 

郷土の歴史と『平和』について学べる施設となっていますので、ぜひみなさん訪れてみてくださいね。

 

大江天主堂

 

キリスト教解禁後、もっとも早く活動をはじめた大江天主堂を今回はご案内いたします。

 

小高い丘に立つこのロマネスク様式の教会は、フランス人宣教師ガルニエ神父が私財を投じて設立したといわれており、昭和8年に完成しました。(翌9年には、前回ご紹介しました崎津天主堂が完成しています。)

 

 

この白亜の建物の建築設計にたずさわったのは、崎津天主堂の建設にもかかわった、教会建築の父こと鉄川与助氏です。日本人の大工がヨーロッパ教会建築の技術を習得し建築したものであり、「天主堂」の作例として、近代建築史上、重要な建物であるとされています。

 

 

パアテルさん(「神父」の意)と呼ばれ、住人に慕われていたという、ガルニエ神父の胸像。贅沢したら人は救えない」が口癖で、つぎはぎの司祭服をまとい、一般信徒と同じ食事をとって質素に生活していたということです。臨終の際には、「墓に金をかけるな。墓をつくる金は病人や困った人に与えてくれ」と厳命したそうですが、慕われていた神父様だけにそうもいかず、信徒は立派なルドヴィコガルニエ塔を作りました。

 

碑文

ルドビィコガルニエ神父様は1892年天草に赴任以来50年、大江崎津教会を兼任、後大江教会主任神父として、生涯を大江の地に埋められた。その間、私財を投じ大江天主堂を建堂し、住民に対しては信者未信者の別なく慈悲をたれ、自らは弊衣を纏い、己を犠牲にしてキリストの愛を実践し信仰の燈を捧げて下された。
 この胸像は30年忌を迎えるに当たり、この偉大なる御功績を讃え、御遺徳を偲ぶと共に後世にその面影を遺し、信仰の精神振起にも資したいと念願し建立したものである。

昭和46年11月26日

 

 

集落を見渡せる場所に作られたルドヴィコガルニエ塔。ガルニエ神父のお墓ですね。

 

ガルニエ神父は、天草に赴任して50年以上、ついに故郷フランスに帰ることなく、生涯を閉じました。祖国からは一時帰国費用なども送られていたのですが、それすらも天主堂建設に投じていたのでした。

 

 

教会敷地内には、ルルドの泉を模したものがありました。フランスにある奇跡的治癒をもたらしてくれる奇跡の泉で、今年になって70例目の「ルルドの奇跡」認定があったことがニュースになっていました。(坐骨神経症に伴う歩行困難をわずらった修道女が、ルルドを訪問後に劇的に回復し、それに対する医学的な説明がつかないとの医師団の判断を受けたもの)

 

 

1907年に発表された九州旅行記「五足の靴」の舞台ともなりました。

 

東京新詩社の主宰であった与謝野鉄幹が、まだ学生であった木下杢太郎北原白秋平野万里吉井勇ら文学青年たちを連れ、九州各地を旅をした足跡を記録したものです。主にキリシタンの遺跡を見聞するための旅行であり、この旅のハイライトが「パアテルさん」こと、ガルニエ神父に会うことでした。

異国情調あふれるこの作品が、明治末期~大正の文壇に「南蛮趣味」の流行をもたらしたと言われています。

 

 

写真工房ひまわりさんの作品展が行われていました。東京から熊本に転居して、活動なされているとのことでした。

なお、12月上旬から1月上旬にかけては、夜間ライトアップが行われる大江冬祭りイルミネーション(電球5万個、17時30分~22時頃)もありますよ。

 

天草の崎津集落/世界文化遺産候補「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」構成資産

 

世界文化遺産候補「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産である、崎津集落を訪問いたしました。1569年、ルイス・デ・アルメイダ神父によってキリスト教の布教が行われたこの崎津集落では、1638年の禁教令以後、激しい弾圧を受けながらも250年間に渡って「潜伏キリシタン」として信仰が守られてきました。

 

江戸幕府による弾圧により、長く指導者(神父)不在であったため、日本文化と混ざり合い、日本独特のキリスト教文化が花開いていきました。たとえば、慈母観音像を聖母マリアに見立てて祀ったり(マリア観音と言われます)、聖具を「納戸神」として祀ったりしました。

 

【注意!!!】

現に地元住民の方が生活する集落自体に価値を見いだしている世界文化遺産候補ですから、来訪時には十分な配慮が必要です。集落内には観光駐車場がほとんどないため、集落内での渋滞発生などで現地に迷惑がかかっていると聞きます。お車で来場される際には、崎津集落ガイダンスセンターなどに駐車し、レンタサイクル(1日200円)を借りてまわるか、当社のような観光ガイドタクシーの利用をおすすめいたします。

 

 

崎津天主堂。

 

絵踏みが行われた﨑津村庄屋宅跡ハルブ神父が買い取って建てたのだと言われています。絵踏みが行われたのは、ちょうど祭壇の位置でした。

 

 

崎津天主堂の由来記。

 

昭和9年に建てられた、ゴシック様式の教会ですが、中は畳敷きという珍しい建築仕様も、見どころの1つです。なお、こちらを建築した建築家・鉄川与助氏のお孫さんである鉄川進さんは、現在、一級建築士として活躍されていますよ。

 

 

 

1927(昭和2)年に長崎の黒崎教会から崎津教会に赴任してきた、ハルブ神父の碑。

 

神父が黒崎教会からもってきたフランス製のオルガンは、古楽器製作者・平山照秋さんによって修復され、修復披露コンサートなども行われました。

 

 

せっかくの崎津の景観を存分に味わうためには、遊覧船(60分2,500円)がいちばんではないかと思い、天草漁協崎津支所を訪ねてみました。

 

屋根付きのクルーザーとかではなく、漁船になりますので、夏場は帽子や日傘のご用意があったほうがいいかもしれませんね。

 

 

水上から見た崎津天主堂。

 

遊覧船は1時間に1便となっていますが、漁協のかたの状況次第ではありますが、わりと柔軟に対応していただけるようです。

 

 

民家から湾に張り出した木組みの漁業作業場「かけ」も、水上ならよく見えます。

 

かけは、魚の水揚げ場所や魚干し、船の係留などに使われ、水に強いシュロの木で作られています。崎津地区は、海と山に挟まれていて土地が狭いため、少しでも土地を広くする工夫なのだと思われます。

 

 

海上のマリア像。これは遊覧船でなければ見ることができないものです。昭和49年に信者さんたちによって建てられたということです。

 

 

お土産には、崎津名物「杉ようかん」をどうぞ!琉球王朝中山王の使節から伝授されたと言われているもので、崎津地区では各所で販売されております。

 

天草の窯元・高浜焼~上田家庄屋屋敷

 

天草シリーズ第2弾。前回は三角西港でしたが、今回は天草の焼き物がテーマ。熊本の焼き物といえば、小代焼(荒尾・玉名)高田焼(八代)、網田焼(宇土)などが知られますが、実は天草も、1650年頃から窯業が行われてきた、歴史ある窯業地域なんです!

 

その中でも、今回は高浜・皿山を起源とする高浜焼をご紹介します。今回はその高浜焼の伝統をうけつぐ「寿芳窯」と、その高浜焼を支えつづけてきた庄屋・上田家の屋敷がまだ現存しておりますので、そちらにもお邪魔させていただきました。

 

 

天草でなぜ窯業がさかんになったかといえば、「天草陶石」と呼ばれる、真っ白で良質な陶石が産出されるからなんです。その品質は、平賀源内に「天下無双の上品」と言わしめた質の良さで(「陶器工夫書」の一節)、いまでも有田や瀬戸に高級磁器の白磁原料として利用されています。年間の出荷量は約3万トンにも及び、全国の陶石生産量の8割を占めています。

 

ちなみに当初は砥石として出荷されていましたが、わずかに鉄塊を含むため刃こぼれの原因となってしまい、砥石としての評価は低かったということです。

 

 

天草陶石を用いた高浜焼は、代々、高浜村で庄屋を勤めてきた上田家によって営まれてきました。その高浜焼や、それを営んできた上田家のことを知るための歴史資料館として、上田資料館という建物があります。

 

寿芳窯の隣に上田庄屋屋敷があり、上田資料館はその敷地内にあります。見学者がいるときだけ開放されるスタイルですので、見学されるときには、寿芳窯の店員さんに入場料を払って、鍵を開けてもらってください。

 

 

高浜村皿山で働く人たちのために発行されていた紙幣「皿山札」。皿山地区でしか通用しないものでしたが、贋札防止のために透かしをいれたり、印刷に版木を用いたりしました。季節ごとに金銭と交換することができました。

 

皿山札は、江戸時代に各地で見られた藩札を見本に作られたようですね。

 

 

高浜焼は、長崎の町人が肥前長与の陶工を連れて高浜を訪れたさいに、開窯を提案されたことにはじまるということです。それを受け、当時の高浜村庄屋であった上田伝五右衛門は、村内で協議の上で、富岡の役所へ開窯を願いでました。

 

もともと天草陶石を村民が農作業のあいまに掘り出し、肥前へ販売していたのですが、陶石は険しい山中にあり搬出がたいへんで、現地に窯をおこして村人に焼き物造りを習わせた方が、よほど村の繁栄につながると考えたようです。

 

 

この上田家庄屋宅は、高浜焼をはじめた上田伝五右衛門の息子、7代目当主・上田源太夫宜珍(よしうず)の時代に作られたものです。こちらも見学することができます!(この中にさきほどの上田資料館があります)

 

 

600坪の土地に南向きに建てられ、部屋数は約20、居室の広さは約100畳だとのこと。建物内部は老朽化が著しく見学はできませんが、建物外観や庭園を見ることはできます。いちばん広い大広間は17畳もあるそう。

 

 

国の有形文化財に主屋、離座敷、表玄関、正門、裏門・塀が登録されていて、昭和7年8月、与謝野鉄幹・晶子夫妻が天草を訪れたときは、離座敷の客房に宿泊されたとのことです。

 

 

1815年当時の建物がまだ現存していることに驚きです。中に入ることはできないまでも、こうして外から中をうかがうことは可能ですよ。

 

 

屋敷内に船を浮かべられるほどの池が・・・。当時の上田家の力を垣間見るようですね。

 

世界文化遺産・三角西港

 

平成27年に世界文化遺産に登録された三角西港が、今回の訪問地です。ホームページの背景写真も、ここで撮影してもらっているんですよ。

 

穏やかな三角ノ瀬戸の上には、架橋が進んでいる新天門橋が見えています。熊本天草幹線道路の整備の一環で、完成すれば、熊本市中心部と天草地域を90分で結ぶ計画なんだそうですよ!楽しみですね。

 

 

明治20年に完成した三角西港は、明治三大築港の1つに数えられていて、当時の石積みの埠頭が現存しているのはここだけなんです。この三角西港は、明治政府の殖産興業の政策に基づいて計画され、オランダ人水理工師であるローエンホルスト・ムルドルによって設計された、当時の最新技術で作られた港湾都市といえます。

 

築港のため投じられた人員は、実に石工13万8376人、大工8421人、人夫は5万591人、潜水夫300人とも言われています。築港には、物流を阻害する宇土半島の険しい山々が障害となりましたが、予算の半分を道路整備にあてることで、3年という短期間で築港を実現しています。

 

 

東排水路。1世紀前からのものが現存し、いまだに使われ続けているというのは、凄いことですし、素晴らしいことですよね。

 

石積みの埠頭は756mにも及び、水路や、西洋建築物などが現存しています。埠頭の石は、対岸の飛岳から切り出した安山岩を切石しています。

 

 

ムルドルハウス。水理技師の名前をつけたお土産屋さんですね。観光パンフレットなどもここで入手することができますよ。

 

 

角の丸みが、実に美しいですね。天草の石工が丹念に削り挙げて、この丸みを作り出しています。

 

 

東排水路にかかる石橋「三之橋」と、アコウの木。

 

写真手前部分には、当時は木橋がかかっていたと言われていますが、現在は失われています。

 

 

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の紀行文「夏の日の夢」の舞台となった、浦島屋。当時の県知事である富岡敬明から、「立派なホテルを作って欲しい」という要請を受けた、小崎義明県会議員と、熊本の実業界の人々の共同出資で作られました。明治38年に解体され、中国の大連に運ばれましたが、平成5年、設計図を元に復元されました。

 

 

浦島屋の建築請負をした小山秀は、天草の御領大島出身で、長崎の大浦天主堂や長崎のグラバー邸を建設した方といえば、すごさが伝わるでしょうか。

 

 

平成26年に三角西港の資料館としてオープンした「龍驤館」。入館料は無料でしたが、平成29年4月1日(土)から入館料がかかるようになりました。

 

 

入館料200円がかかりますが、館長さんが港のなりたちや時代背景などを丁寧に説明してくださいますから、安いものではないかと思います。

 

天草一号橋のふもとで立地的には行きやすいですので、ぜひ一度石造りの港湾都市を散策されてみてくださいね。

 

兼坂塾跡~百梅園

 

徳富蘇峰が幼い頃に学んだ、兼坂止水の私塾跡をたずねました。熊本市民のかたには、百梅園という梅の名所として有名なところですね。

 

兼坂塾跡
兼坂止水は、細川藩士で学者、詩人として知られており、また明治四年(1871)家禄を奉還し、農事にしたがった藩士中第一号の帰農者としても有名である。梅をこよなく愛し、数多くの梅を植えたことからここを百梅園と名づけ、この地に塾を開き多くの子弟を教育した。徳富蘇峰もこの塾に学んだ。(現地案内板より)

 

 

兼坂止水が愛した百梅園の梅も、時代とともに枯れてしまったりして、だいぶ寂しくなっていたそうなんですが、島崎繁栄会を中心とした地元の方々が、20年という歳月をかけてここまで梅の木を寄付したりして梅の名園として整備されたそうです。

 

梅の見頃は3月中旬頃とのことで、取材に来る時期を間違えましたね・・・。

 

 

百梅園自体に駐車場はございませんので、石神山公園に駐車して、南側出入口から徒歩で降りてくるのがいちばん簡単かと思います。入り口を見落としやすいのでご注意を。上の写真のところから降りるのですが、案内板がとても小さいですので・・・。

 

叢桂園公園の駐車場にとめて、上っていく方法もありますが、叢桂園駐車場までの道はとても狭く、また駐車場が舗装されていませんので、特に雨天時は石神山公園がベターかなと思います。

 

 

細川藩剣術師範であった兼坂止水は、明治3年家禄を奉還して帰農し(帰農者第一号)、この地に翌年私塾・衆星堂を開き、さらに蔵春堂を設けました。これを一般的には「兼坂塾」と呼んでいます。

 

 

百梅園のある島崎という地は、江戸中期から別荘地として開けたところで、この地はもともと細川藩家老の米田松洞の別荘があった場所だということです。その後、兼坂氏の所有となったとのこと。

 

 

 

百梅園にはまだ梅の花は咲いていませんでしたが、よく手入れされていて、日の当たるじつに気持ちのいい公園でしたよ。

宝来宝来神社~当銭神社(宝くじ当選祈願)

 

宝来宝来神社は宝くじの御利益があるとして、熊本のテレビで取り上げられ、有名になった神社です。

 

”ブラックルーム”などのアトラクション施設もあり、お子さん連れで来ても子どもも退屈しないんじゃないかな?と思います。テーマパーク的な神社という趣きです。

 

 

平成16年春、リストラされた重機の運転手がこの土地の造成工事を行っていたところ、大きな岩に当たりました。運転手はその岩を取り壊そうとしましたが、突然重機が動かなくなりました。修理してまた取り壊そうとしましたが、再び故障し原因も不明です。

 その夜、夢に岩が出てきて「どうして私を壊そうとするのか?」と言うので運転手は「生活のために金が必要だ」と答えると、岩は「それなら宝くじを買いなさい。そして当たったお金の一部で私を掘り出して祀ってくれないか?」と言いました。運転手は半信半疑で宝くじを買うと生活に困らない程度の額が当選したので岩を掘り出しました。

 その話を聞いた友人が、この岩を拝み宝くじを買ったところ、途方もない額が当たりました。その噂が広まり、誰ともなくこの岩を『当銭岩』と呼ぶようになり、願掛けする人々が訪れるようになりました。その後、当選された方々のご寄付により、当地を宝来宝来神社として建立いたしました。

(宝来宝来神社公式HPより引用)

 

 

 

宝くじ当選者からの寄付によって、この拝殿堂が建立されたそうです。当選者の御利益にあやかることができそうな気がしますね。

 

 

宝来宝来堂にて、12時から1時間おきに計5回、お祓いおよび開運祈願を行ってくださいます。終わり際に、小判のようなお守りのシールをいただけました。

 

 

開運御利益ブラックルーム。電気がいっさい点いておらず、目を慣らしながら探検します。子どもたちに大人気で何度も繰り返しワイワイ遊んでいました。

 

何事もあせらず、落ち着いて事にあたることを身をもって体験するのが目的の施設で、目を慣らせばありがたいお言葉も見える仕様なのですが、子どもたちにすれば漆黒を体験できるのが面白くて仕方が無いようでした。

 

 

外れくじの供養箱。宝くじ神社ならではですね。

 

 

ラッキーナンバールーレット。これもあまり他の神社では見たことがないですね。

 

 

開運グッズやパワーストーンなども売られていました。開店祝いなどで、おめでたいものが必要になったときにはここに来れば、運気の上がるようなアイテムが手に入りますね。

 

 

この9つの鳥居を決まった所作で「ホギホギ」と唱えつつ巡回します。ホギホギとは「陽光和福招金萬宝来」の略語で、鳥居には正式名称が1字ずつ書いてあります。

 

 

宝くじ当選者にあやかりたい人は、ぜひ尋ねてみてくださいね。まるでテーマパークのようにいろいろと楽しめるものがありますが、あくまで神社。祈祷や参拝、施設利用はすべて無料となっていますのでご安心ください。

 

阿蘇白水龍神權現(金運アップ、宝くじ当選祈願)

 

先日、白蛇様をご神体として祀っておられる赤水蛇石神社をご紹介させていただきましたが、白蛇様を祀っている神社は阿蘇にはもう1つございまして、こちらも、金運や商売繁盛に御利益があるとされる、霊験あらたかな神社となります。

 

平成12年頃に白蛇様(白寿、白仙、紅龍)が鎮座したため、宮司がそれをお祀りするため創建されたという、新しい神社となります。

 

 

七福神像。この七福神を参拝すると、7つの災難が除かれ、7つの幸福が授かるとのこと。

 

 

厄祓、除災招福、金運開運、闘病平癒、延命長寿、健康、弁才、智徳と弁財天の八徳が込められているとされる龍神水。手水舎ですね。

 

 

阿蘇五岳岩。地下マグマが固まったこの岩を礼拝することで、岩にたまったエネルギーにより御神霊を頂けるとのことです。

 

 

授与所。こちらで初穂料千円を収めますと、金運アップの祈祷をしていただけます。祭壇にいつも使っている財布を置いて祈祷をしていただくため、とても御利益がありそうです。

 

神棚用の御札と、財布にいれておくための金のお守りをいただけました。

 

 

国道からの入り口がわかりづらいですので、通り過ぎませんようにご注意を。桜の時期ですと一心行の大桜も近いですので、いっしょに回るといいかもしれませんね。

 

乙姫子安河原観音/子宝祈願・子授かり

 

昨今の晩婚化もあって、子どもをなかなか授かれないご夫婦が多いと聞きます。不妊治療もたいへんお金がかかるそうで、なんとしても子宝を授かりたいと、多くの方が悩んでいるようです。

 

そんなご夫婦のために、今回は子宝祈願の観音様をご紹介させていただきます。

 

 

ご神体が河原に鎮座されている、とは・・・?

 

はい、今回ご紹介させていただく乙姫子安河原観音は、「河原の底にいらっしゃる」観音様なのです。

 

 

階段で河原まで降りて、間近で拝観することも可能ですが、踊り場の部分から上から拝観することもできますよ。

 

わりと急な階段ですので、動きやすい靴で拝観なされてください。

 

 

ご神体である観音様が、仰向けにねそべっている形になっております。この河原で石を拾って股間にはさんで寝ると、子どもを授かると言われています。黒い石なら男の子、赤い石なら女の子の授かりに御利益があるそうです。

 

また、石をご神体の上に乗せる参拝の仕方をなされる方もいたりするとか。

 

 

なお、日本の奇岩百景(登録番号102/2016年12月登録)にも登録されています。

 

 

阿蘇乙姫 子安河原子安河原観音 由来

乙姫子安河原観音様「子授かり安産」の守り神として、 広大な慈悲の姿で乙姫川の上流・子安川のこの地に鎮座されています。 上向きに寝た女体の形をした自然石で、胸から股の辺りまでを表し、それが観音様のお姿というのである。
約1500年前、神功皇后の安産を祈られたと伝えられ、また近くには大正天皇の御降誕の折、阿蘇大宮司は七日七夜、ご安産を祈られ、その御神石を宮中に奉持し金五円を宮中から下賜された。(明治12年) このように古来から皇室の尊信をはじめ、地域の尊崇を集めて参拝者が絶えない。
子供の欲しい人はここに来て川石を持って帰り股にはさむと必ず子宝を授かると言い伝えられている。
 祭日は毎年5月8日である。(乙姫子安河原観音公式HPより)

 

 

掲示板にはお礼の手紙や新聞の切り抜きなどでいっぱい。それだけ御利益があったということなのでしょう。

 

 

祈願成就後のお礼参りのさい、子宝祈願のために自宅に持ち帰った石は、こちらに返すことになります。赤石と黒石の比率は、ちょうど半々くらいかな~というところでしょうか。

 

 

子宝祈願ということで、絵馬もすこし小振りなものとなっておりました。

 

子宝を願うご夫婦は一度、ご参拝なさってみてはいかがでしょうか。

 

赤水蛇石神社

 

宝くじ当選祈願を熊本でなされるなら、阿蘇方面には金運に御利益のあるパワースポットが多くございます。

 

赤水蛇石神社はその1つで、名前の通り、「蛇石」といわれる巨岩がご神体となっています。七福神の一員たる弁財天の使いとされる白蛇様が大切に祀られています。

 

 

蛇石神社をご紹介しておいて何ですが、わたくしは蛇が少々苦手でして・・・。白蛇様ご神体は、遠巻きに見させていただきました。

 

手前に白蛇様をモチーフにした開運の像があり、それを3回なでて祈願するとよいとのことでした。

 

 

白蛇様が二体いらっしゃいましたが、エアコンで快適な温度に保たれ、大切にされているようでしたよ。(右隅と、左の棚上)

 

 

蛇石神社の由来と霊験

阿蘇は外輪山に囲まれていた大きな湖水であった。
大噴火により湖水の水は流れて有明海へ流れ出た。
湖面の水位が下がるにつれて中島の五岳の裾野も大きく広がり、各所には今も蛇の尾、船の尾、舟形、船繋石、蛇石、雷石、鯨石、などの地名が名残りをとどめている。

神話によれば「赤水村と云う村があり隼風とともに黒雨天を覆い雷鳴とともに一条の竜巻天に冲するも、やがて巨岩の切れたるところ一尺あまりの白蛇居て不思議な霊験を現すので、村人たちは蛇石さんと崇め小祠を建て祭りをするようになりたと。」記載されている。

赤水村の古老の語り継ぎによれば約五百年前の応仁の乱時代より語り継がれ、それ以前より更に一千年以前から云い伝えられたとなっているので、今日からすれば一千五百年前よりこの地に自然動物崇拝があったと見られる。

蛇石と云う巨岩は上下二つに分かれて重なり、その裂け目に蛇が棲息し現在も姿を見せることがある。
何時のころより蛇が居たかは定かではないが代々村人に崇められていたので古くから居たのは疑う余地はない。

蛇石神社は昔より霊験厚く、いままでに数多くのお礼の手紙等が寄せられています。
又、蛇は金運・豊穣の神として他の国でも崇められています。

 

・無事故祈願
・無病息災祈願
・病気回復祈願
・金運、宝くじ祈願
・試験合格、学業向上祈願
・事業達成祈願
・各種祈願

 

 

宝くじ当選祈願に、ぜひ赤水蛇石神社に足を運んでみてはいかがでしょうか。その際には、加来タクシーでしたら周辺のパワースポットもあわせてご案内させていただきます。