国指定重要文化財・八千代座~るろうに剣心ロケ地

 

山鹿灯籠民芸館の取材のとき、入場券を買うさいに、「八千代座にもはいれる共通入館券がお得ですよ!」と言われましたので、せっかくなので、八千代座も見学していくことにいたしました。明治43年から続く、国指定重要文化財でもある芝居小屋です。ちなみにこの共通入館チケット、さくら湯の割引券にもなるという、何重にもお得なチケットなんですよ。

 

というわけで、八千代座にやってきました。まずは正面の瓦に注目していただきたいですが、この広い屋根には約33,000枚という瓦がひかれておりますが、実は大部分が平成の大修理で新しいものに取り替えられております。しかし、正面の約1,500枚だけは、当時の古い瓦がそのまま使われているんですね。

 

 

明治43年、当時の山鹿の旦那衆によって、豊前街道沿いに”八千代座”を設立することが決められました。この芝居小屋を作るにあたって、旦那衆は”八千代座組合”を作り、1株30円で株を募って、資金を集めたということです。

 

老朽化し、一時は倒壊の危険すらありましたが、平成8年7月から平成13年5月にかけて行われた、平成の大修理(重要文化財八千代座保存修理工事)を経て再生を果たし、いまでも市川海老蔵や坂東玉三郎といった歌舞伎界の大物の公演がなされています。

 

 

八千代座創建にあたって、資金をだしあった旦那衆とは、いまでいう山鹿市実業界の人々・・・といった人たちですが、具体的にどのような人がお金を出資したのかは、八千代座の天井を見るとわかります。

 

八千代座を特徴づける、色鮮やかな天井広告画。他の芝居小屋では見られない特色で、明治から昭和にかけて、3パターン作られましたが、今回の修復では建設当初のものを復元してあります。一部図柄が不明なものがあったため、同じ広告画が何回も使われていたりします。

 

 

平土間(枡席)にて、係員が八千代座の歴史や建物の特徴などを、冗談まじりに愉快に説明してくださいます。取材した日はご年配のかたが多かったですが、熱心に係員の説明を聞き入っていました。

 

 

舞台側から、客席を見た写真。平土間(枡席)には傾斜がつけられているのが分かりますでしょうか。これは後ろの人でも舞台が見やすくするための工夫ですね。なお、畳は、傾斜があって滑るため、逆目にしてあります。

 

枡席は歩み板で仕切られていますが、この歩み板の上をつたって、売り子さんがお弁当などを売りに来ていたそうです。

 

天井に見えるシャンデリアは平成の大修理によって蘇ったもので、第二次世界大戦の金属供出でなくなっていましたが、平成13年に復元されました。当初は写真も資料もまったくなくて困っていたそうですが、新聞記事にたまたまシャンデリアが映り込んでいた写真があったから、復元できたんだそう。

 

 

大屋根を支えるための小屋組(屋根を支える骨組み)には、洋式のトラス工法(クイーン・ポスト・トラス)が採用されています。そのため、柱が少なく広い客席空間を確保することができています。小屋組の下は伝統工法ですので、和洋折衷の建築様式となっています。

 

なお、現在の八千代座には、耐震補強の観点から、明治43年の建設当初は存在しなかった柱が追加されています。上の写真の赤い柱は建設当初からあったもの。黒い柱は耐震補強のために追加された柱になります。こればかりは安全のために仕方がないですね。

 

 

花道のつけ根のところにある小型のセリである”スッポン”。幽霊や妖怪といったキワモノが登場するところですね。

 

 

スッポンの真下。なんと人力!!大人4人で、よいしょ!と担いで、せりあげたわけですね。

 

 

スッポンの真下の写真があることからもわかるとおり、普段は決して見ることはできない、舞台の下(奈落)まで見学することができるんですよ。ただし、見学は公演期間中にはできませんので、そこだけはご注意ください。

 

奈落の壁を見ると4段に石が積まれていて、この石は鍋田石とよばれる凝灰岩となります。

 

 

廻り舞台の下。なんとここも人力なんですね。廻り舞台を支えるレールには「KRUPP1910」の文字が刻まれており、ドイツ・クルップ社製のものであることがわかります。伝統的な外観でありながらも、各所に外国の技術が採用されているのも八千代座の特徴です。

 

 

向かいには当時の映写機や上演記録、チラシといった資料を見ることができる資料館”夢小蔵”もございますので、演目のないときに、ぜひ見学に訪れてはいかがでしょうか。(八千代座の見学チケットで夢小蔵もはいれます。)

味取観音堂~種田山頭火”放浪の旅”の出発地

 

味取観音堂(熊本市北区植木町)は、自由律俳句の俳人、種田山頭火ゆかりの寺院です。大正14年、42歳のときに、ここ味取観音堂の堂守になりました。

 

”大正十四年二月、いよいよ出家得度して、肥後の片田舎なる味取観音堂守となつたが、それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいと思へばさびしい生活であつた。”(種田山頭火歌集「草木塔」より抜粋)

 

 

種田山頭火(たねだ・さんとうか)  
山頭火は本名種田正一、明治十五年、山口県防府市に生れた。早稲田大学文科を中退し、父と共に家業に従事したが失敗し、それから流浪の生涯が始まった。熊本に来たのが大正五年、彼が三十五才の時であった。酒にひたって家業を顧みず、上京したり帰熊したり奔放な生活を続けていた。大正十三年、出家して禅僧となり翌年、味取観音の堂守として、読経と句作の独居を続けた。観音境内の句碑に刻まれた『松はみな枝垂れて南無観世音』の句は、当時の作である。しかし、ここも永くは続かず一年二ヵ月にして去り、以来、放浪生活を送り昭和十五年十月十一日、四国松山市の一草庵で波瀾の生涯を閉じた。五九才であった。
山頭火は荻原井泉水の俳誌『層雲』によって自由律の俳句をよんだ詩人で『鉢の子』をはじめ七句集やぼう大な日記類があり、「山頭火全集」まで出版されており、日本の俳句史上特異の地位を占めている。

平成一三年十月二十二日 植木町教育委員会 (現地案内板より)

 

 

味取観音堂(曹洞宗瑞泉禅寺)。種田山頭火の堂守生活は長くは続かず、大正15年、43歳のときに寺を出て、雲水姿で流浪の旅にでて、旅先から『層雲』に投稿を続けたといいます。
お堂のわきに、さらに上のほうにある神武神社へつづく小道があります。

 

 

「松はみな枝垂れて南無観世音」の句碑。

 

種田山頭火が生きている間に建てられた句碑としては、唯一のものだということです。

 

 

瑞泉禅寺に設置された投句箱。種田山頭火ゆかりのお寺さんらしいですね。

 

 

せっかくですので、瑞泉禅寺の住職さんに、お話をすこし伺ってみました。

 

なんでも、今年11月26日に「種田山頭火と味取観音瑞泉寺紅葉まつり」が行われるとかで、臨時駐車場が設けられるなど、準備が進められているようでした。種田山頭火の供養祭(当日10時から)や、野点、作品展示などといったさまざまな催し物があるそうですよ。

 

 

 

なお、青空文庫から種田山頭火の歌集を読むことができます(無料)。

小野泉水公園(ホタル生息地)

 

 

小野泉水公園(熊本市北区植木町)はホタル生息地として知られ、小野小町伝説がある泉水がございます。

 

平安時代の絶世の美女、そして六歌仙のひとりである小野小町が、産湯をつかった泉水があるというのです!

 

 

ただし、小野小町の出生地ははっきりしておらず、各説あることは、あらかじめ申し上げておきたいと思います。秋田県湯沢市小野とする説、京都市山科区とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、神奈川県厚木市小野とする説、そして熊本県熊本市北区小野とする説がございます。

 

平安時代の女流歌人、小野小町ゆかりの泉水。父の小野良実がこの地に流刑になったときに小町が生まれ、泉水の水を産湯につかったという伝説が残っています。

岩の隙間や池底湧出する水は豊富で、池のほとりには小町像が安置される小町堂、その横には小町が詠んだ「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」の歌碑が建立されています。(現地案内板から引用)

 

 

小野泉水は自然にわきでる湧水で作られた池で、鯉もたくさん住んでいます。水面に映える緑が美しく、取材に来たときにも一眼レフカメラをかついだ方が、写真を熱心に撮っていらっしゃいました。ここで小野小町が産湯をつかったのでしょうか。

 

5月頃になると、ホタルが見られるということです。

 

 

さて、そもそも小野小町美女伝説はどこから来たのでしょうか?写真もなにもない時代、肖像画すら見つかっていないのに、美女伝説は現代まで残っています。

 

朱色あざやかな小町堂。小野小町像が安置されていて、毎年3月15日にご開帳されます。

 

それは、紀貫之が六歌仙を選出したときの寸評によるものとされております。

小野小町はいにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはばよき女のなやめる所あるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。」

「衣通姫(そとおりひめ)の流れなり」の解釈が難しいですが、衣通姫の「何の」流れなのかを明示していないため、いかようにも読めます。後世の人はこれを「衣通姫のように美しい容姿」という意味だと解釈したようです。というのも、衣通姫の歌は1つしか後世に伝わっておらず、そのため「歌の流れ」とは解釈しがたいためです。

衣通姫とは、絶世の美女と言われている伝説の女性で、美しさのあまり衣を通して光り輝いたと言われています。

 

 

小野泉水にかかる正院めがね橋。

 

安政三年(1856年)に正院川に架設されていた橋であるが、河川工事により昭和52年3月に、正院より現在地に移転して復元されている凝灰岩製。単一のアーチ橋である。幅2.1m。両脚間の幅4.8m、水面までの高さ2mである。楔石に陰刻銘がある。(現地石板の記述より)

 

 

正院めがね橋。こちらから見るとアーチ状の構造がよくわかりますね。

 

正院めがね橋

 

小野小町は、本名ではないとされます。当時、名前に「町」をつけてよばれるのは、後宮に仕える女性でした。ですので、小野小町という名前は、宮仕えしている小野さん、というような意味合いになるのではないかと思われます。

 

ところが「小」町と、町に「小」がついていますね。これは、小野小町にはお姉さんがいて、「年が若い方の小野町さん」という意味で、「小野小町」とよばれていたのではないか、と考えられます。

 

 

七国神社。中傷によって流刑に処せられた小野良実が無事に都に戻れるよう祈願して建立されたものといわれています。その後、小野良実はその願い通り、無事、都に戻ることができました。

 

 

都に戻れたはずの良実の墓が熊本にあるのは、いったい・・・?(小野泉水公園のすぐそばにあります)

 

 

小野泉水に隣接して、小野泉水公園が設けられており、水遊びをする場所などもありますから、夏場にお子さん連れで遊びに来るにはよいスポットかと思います。

 

山鹿灯籠民芸館~室町から続く伝統工芸品

 

金灯籠を頭につけて、女性たちが踊る山鹿灯籠祭り。今回はそのお祭りで使われる灯籠を堪能できる、山鹿灯籠民芸館をご紹介いたします。

 

まずはこの宮造り燈籠をご覧ください!これも山鹿灯籠の技術で作られていますが、これがすべて、和紙と糊だけで作られている、このすごさがおわかりでしょうか。

 

木も金具も用いていませんし、柱は和紙を折って糊付けしてあるもので、内部は空洞になります。そのため、骨なし灯籠とよばれることもあります。

 

 

山鹿灯籠まつりでおなじみ、金灯籠。繰り返しますが、和紙を折った部品だけで作られているものです。

 

室町時代頃に紙製の山鹿灯籠が作られるようになったといわれていて、江戸時代になると精巧なものが作られるようになり、現在では国指定の伝統工芸品に指定されています。熊本県では小代焼、天草陶磁器、肥後象がんに続いて、4品目の指定になるとのことです。

 

 

豊前街道沿いにある、山鹿灯籠民芸館の建物です。灯籠師による制作実演も見ることができますし、八千代座との共通チケットもあります。

 

もともと、山鹿灯籠の起源は、景行天皇を山鹿の人たちが出迎えるにあたって、霧が深かったためにたいまつで道を示したことがはじまりだったとされています。それが、形をかえて紙製の灯籠が作られるようになりました。

 

 

この建物自体が登録有形文化財です。大正14年に築造されたロマネスク風建築物で、旧安田銀行山鹿支店跡となります。昭和48年までは肥後銀行山鹿支店として使われていました。

 

 

天井に目をやれば、多数の金灯籠と、双龍の絵が。

 

 

現在、さくら湯が立地している場所には、かつて山鹿御茶屋という細川藩の休憩所がありまして、そこにあったお殿様用の温泉の天井絵だったといわれているものです。

 

山鹿御茶屋という肥後細川藩の休泊所があり、お殿様専用の御前湯がありました。

 

 

金灯籠の制作工程の解説。

 

 

灯籠師による作品が多数展示されていますが、この施設のすごいところは、実際に灯籠師が山鹿灯籠を作っているところを見れるんです!

 

 

灯籠師・中村潤弥さん。写真掲載も快く許可いただき、ありがとうございました。作業台に置かれたさまざまな道具を使って、目の前で作業をしてくださいます。

 

 

訪問した日は、牛車を作っていらっしゃいました。お見事!

 

 

これが・・・紙?いくつかの部品は、実際に手に取ってみることができます。この六角形はポンチで打ち抜くんだそう。

 

 

記念写真を撮影されたい方は、このように金灯籠を頭上において、写真撮影することもできるようになっています。

 

 

山鹿灯籠の技術で作られた八千代座。

 

 

山鹿市街は全体的に坂になっておりますので、足腰のお悪いかたや、詳しいガイドが欲しいかたはぜひ観光ガイドタクシーをご利用ください。歴史観光ガイドタクシー「加来タクシー」であれば、さらに詳しいご説明をおつけして快適な山鹿周遊をお楽しみいただけますよ。

明治から続く、山鹿の酒蔵/千代の園

 

熊本市から国道3号を北上し、菊池川にかかる山鹿大橋を渡りますと、右手に大きな煙突が見えてきます。

 

山鹿で唯一の酒蔵、「千代の園酒造」の煙突です。

 

明治29年に米穀商、本田喜久八氏が、銘酒「清瀧」の醸造を始めたことから、「千代の園」ははじまったとされています。

 

 

千代の園の最初の銘柄である「清瀧」の名前は、八千代座の天井看板にも見ることができます。

 

看板には、本田喜久八商店という当時の屋号が載っていますね。植木にも支店があるようです。

 

 

千代の園は、熊本の地酒である赤酒を取り扱う数少ない酒蔵の1つでもあります。

 

熊本で赤酒を製造しているのは、あとは川尻の瑞鷹(ずいよう)だけだったかと思います。

 

 

山鹿市は、町ぐるみで昔ながらの景観を残そうと頑張っていて、電柱も地中化されています。

 

商店街につらなる店舗は、いま風の全面ガラス張りの店舗ではないので、はいりづらいという声を聞くこともありますが、それも昭和初期の雰囲気を壊さないようにとの配慮があるからこそ。

 

町をぶらっと歩くだけでも昭和浪漫が感じられて、楽しいですよ。

 

 

酒造り資料館。

 

千代の園で実際に使われていた、酒造りの道具などを見ることができます。

 

 

酒造りに使われる、暖気樽、ぐり枡(水枡)、ごんぶりなどなど。

 

本田酒造場という、当時の名前が見えますね。企業整備により、吉田酒造場、西牟田酒造場と合同して、有限会社本田酒造場を設立したのが昭和19年のことです。

 

企業整備とは、第二次大戦による戦時経済の下、国家により行われた企業再編のことです。

 

 

当時の写真や、当時の勘定帳など。

 

 

100年前のレジやら電卓など。

 

 

このように、さまざまな道具を見ることができます。

 

入館料もありませんし、体験型の展示などもあって、ぜひお子様連れで来ていただきたいと思います。

 

 

一斗缶はよく見ますが、一斗「瓶」というのがあるんですね・・・。すごい迫力です。

 

 

大人の方には試飲などもできたかと思います。山鹿に行くなら、酒好きでなくとも外せないスポットだと思いますよ。

花岡山・仏舎利塔

 

お釈迦様の骨(=仏舎利)を祀った仏塔を、仏舎利塔といいます。

 

仏舎利塔は、インドの「ストゥーパ」の様式を模して作られた仏教建築物で、日本にも多数存在しています。

 

 

仏舎利塔といっても、仏舎利はたいへんに貴重なものですから、かわりに経典や宝石が納められることが多いのです。

 

しかし、この花岡山の仏舎利塔は、インドのネール元首相から寄贈された、本物の仏舎利をおさめており、たいへん貴重な存在であると言えます。なお、尖塔の黄金コタは、スリランカのコテラ・クラ首相から送られました。

 

 

花岡山

花岡山(標高133m)は、熊本市内が一望でき、夜景が美しく、桜の名所としても知られています。

公園の中心部には、インドのネール元首相から世界平和の祈願をこめて日本山妙法寺に寄贈された御仏舎利(お釈迦様の骨)と第二次世界大戦における県下の戦死者の御霊石を納めた仏舎利塔(1954年完成)があります。

また、熊本城を築城した(1607年)加藤清正は、この山から多くの石を切り出し運んだといわれ、石を切り出す指揮をとった清正公が、休憩時に兜を脱いで置いたといわれる「兜石」や腰掛けて休んだといわれる「腰掛石」などもあります。

公園広場の南の端を出ると、日本キリスト教(プロテスタント)の源流の一つである「熊本バンド」が当地で結成されたことを記念する「熊本バンド・奉教之碑」があります。

花岡山を歩くと、このような由緒ある史跡や美しい風景を楽しむことができます。

(現地案内板より引用)

 

 

仏舎利塔の側面には、このような仏教画をきざんだ石板が多数埋め込まれています。

 

 

仏舎利塔のまわりはぐるりと周遊できるようになっていて、仏教画を眺めながら散策しているかたがたくさんいらっしゃいました。

 

 

花岡山は名勝地としても知られており、熊本市を一望できますので、お散歩コースやデートスポットとしても、地元の人にとても人気があるんですよ!熊本駅新幹線口のすぐそばなので、特に鉄道ファンのかたにはたまらない眺めかもしれませんね。

 

 

数年前の冬の日に撮影した、花岡山からの、熊本市の夜景の写真です。

 

 

夜景を撮るスポットもいくつもありますので、新幹線での出張帰りにカメラをたずさえて、花岡山にのぼって夜景を記念に持ち帰る・・・というのも、乙なものかもしれませんよ。

 

 

花岡山は、熊本城築城のための石材を切り出した山としても知られているところです。そのため、築城を指揮した加藤清正由来の史跡がいくつもあります。

 

そのうち1つが、この腰掛石。ここに清正公が腰掛けて指揮をとったとのこと。

 

その他、清正公が兜をかけておくのに使った兜岩、合図をかけるのに鐘をかけたとされる鐘掛松などがあります。

 

 

花岡山には見どころはまだまだ、他にもたくさんありまして・・・

 

神風連の変に倒れた官軍の兵を弔うために作られた官軍墓地や、薩軍砲座跡熊本バンド奉教之碑加賀マリア殉教碑、阿蘇氏が豊臣秀吉に切腹させられた阿蘇殿松跡、幕末の志士を弔う招魂祠などなど・・・

 

全部書こうとすると、長くなりすぎますので、また次回!

熊本市西区の白川県庁跡・古町公園

 

熊本県北部を、白川県とよんだ時代があることをご存じですか。いまの熊本県は、かつて存在した白川県と、八代県が合併してできたものなのです。熊本の人でも知らない人のほうが多いのではないでしょうか。

 

熊本市西区・二本木団地のそばの古町公園には、ひっそりとかつての県庁跡が残されています。

 

※廃藩置県のあと、熊本県が発足するのですが、水害により二本木に移転したときに白川県と改称されました。その後、八代県と合併し、再度熊本県と改称されたという経緯があります。

 

 

二本木というと、熊本の人には、かつての遊郭街というイメージが強いと思いますが(※)、昔から政治の拠点があった場所なんですよ。二本木遺跡群の調査によれば、奈良時代には何らかの役所があったと推定されており、平安時代には飽田国府が置かれていました。飽田国府の国司としては、清原元輔(任期:986~990)がいまして、桧垣との交友記録が残されています。

※遊郭街だったころの名残りで、「一龍閣」というソープランドが最近まで営業をしていました。二本木最後の風俗店でしたが、熊本地震で全壊しました。

 

熊本市には、そのものスバリ「国府」という地名の町がありますが、そこが肥後・熊本で、最初の国府「託麻国府」が置かれた場所と言われています。その後、益城国府(益城郡城南)に移転し、最後にこの飽田国府に移ってきたとされています。飽田国府の推定位置は、いまのKAB(熊本朝日放送)のあたりで、かつては鉄道病院がありましたね。

 

 

明治天皇行幸白川県庁跡

明治四年(一八七一)、廃藩置県によって熊本県が置かれ、熊本県庁が発足しました。

熊本県庁は、最初、旧花畑邸に置かれましたが、一旦、城内二の丸に移った後、明治五年六月、ここ二本木に新築移転し、このとき県名も白川県に改められ、白川県庁として発足しました。

同年六月、明治天皇西国御巡幸のとき、熊本藩の献納した軍艦(龍驤・りゅうじょう)を御召艦とされたことから熊本に御立寄りになり、ここにあった白川県庁に入御されました。

天皇の行幸は、歴史始まって以来の出来事であり、県を挙げての歓迎に沸き立ったといいます。

明治六年、八代県が熊本県に統合されたため、白川県庁は手狭になり、そのうえ白川の度々の水害に悩まされたため、明治八年、古城に移転し、翌年県名も再び熊本県と改称されました。

 

 

明治天皇臨幸碑。もともとは白川堤防にあったもので、白川改修工事のとき、この古町公園に文字盤の部分のみが移されました。

 

国造神社と、手野のスギ

 

肥後国(熊本県)には、延喜式神名帳に名前が載っている神社が四座あります。

 

延喜式神名帳とは、平安時代に編纂された神社一覧表のことで、編纂時期から逆算すると、これに載っている時点で1000年以上の歴史があることになりますね。四座のうち二座は阿蘇神社のことで、あとは玉名の疋野神社。そしてこの阿蘇・国造神社となります。熊本県でもっとも古い神社の1つとなります。

 

 

こちらの現在の社殿は、1672年に細川綱利公によって造営されたものとなります。

 

国造神社

阿蘇の開拓に尽力したとされる速瓶玉命をはじめ四神を祀っている神社です。阿蘇神社から約6km北に位置しているため、北宮とも呼ばれています。境内神社の一つ、鯰社は阿蘇カルデラに湖があった時代、湖の主であった大鯰を、阿蘇開拓の祖である健磐龍命による湖水干拓ののち祀ったものとされ、カルデラ湖の形成・消滅の歴史と深いつながりがある伝説が残されています。(現地案内文より)

 

 

国造神社は、位置的に阿蘇神社の北側にあるので、北宮という言い方をされることもあります。また、国造神社という名前は、速瓶玉命が阿蘇国造に任命されたことに由来します。

 

祭神

速瓶玉命(はやみかたまのみこと)
雨宮媛命(あまみやひめのみこと)
蒲智比咩命(かまちひめのみこと)
高橋神(たかはしのかみ)
火宮神(ひみみやのかみ)

 

 

深い森につつまれた神社であり、おごそかな神話の雰囲気がとてもよくでている場所です。こちらで行われる祭りの数々(歌い初め、春祭り、おんだ祭り、風祭り、眠り流し、田の実祭)は、阿蘇の農耕祭事として重要無形民俗文化財に指定されています。

 

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樹齢1000年とも2000年とも言われた、手野のスギ。速瓶玉命お手植えのスギだと、伝わっています。天然記念物に指定されていましたが、平成3年の台風19号によって高さ11mのところで折れ、その後、枯死したため、平成12年9月6日で天然記念物の指定を解除されました。

 

その後、地元の有志が集まって「手野の大スギ保存事業期成会」を立ち上げ、地上2.5メートル~7メートルの部分を切断し、2002年に上屋をかけ保存されています。

 

 

もとは夫婦杉だったらしく、手野の二本杉とも呼ばれていました。男杉は文政年間(1818~1830)に雷火により伐採されております。そのため、いま伝わっている手野のスギとは、この女杉のことを指します。

 

 

神符守札授与所で屋内保管されている、水神木。国造神社第二位の神木で樹齢800年を誇りましたが、これも平成3年9月の台風19号の影響ににより枯死しました。

 

 

阿蘇神社とも近い上に、パワースポットでもありますので、ぜひともに訪れて欲しい場所です。なお、御朱印はスタンプ方式なので、ちゃんと手書きのものが欲しいということであれば、阿蘇神社に訪れた日を伝えれば、書いていただけますよ。

阿蘇神社参道~水基めぐりの旅

 

阿蘇神社の門前町商店街「仲町通り」は、かつては観光客に素通りされてしまう、さびれたところだったそうです。あるとき、「水基めぐり」というコンセプトで町おこしをはかり、大成功をおさめているところです。

 

 

水基(みずき)とは、水飲み場のこと。豊富な湧水を使って、町の各所に水基を設置し、自由に湧き水を飲んだり汲んだりできるようにしたのですね。

 

 

見た目にも涼やかですし、ほどよく分散されていますので、お子さんにとっては巡って遊ぶスタンプラリー的な楽しみ方もできると思います。

 

 

この日は夏休み真っただなか、ということもあり、子ども連れの家族でごった返していました。

 

 

雰囲気がよくて、散策するだけでも楽しいですよ。あか牛や馬肉、湧水を使った、グルメの数々も魅力です。

 

 

おいしいものいっぱいありますが、特にあか牛関係の食事処はかなり待たされます・・・。実はここであか牛料理を食べようと思っていたのですが、あまりの行列に断念!とりあえず、小腹を満たすために、とり宮さんで、馬ロッケ(馬肉コロッケ)をいただくことにしました。

 

 

ここでも15分ほど待たされました・・・。仲町通りは観光地化がすさまじく、もう長期休暇のシーズン中は特に、人でごった返すのですよ。

 

 

馬ロッケ、やっと買えました!あげたてで熱く、少しやけどをしかけましたが・・・。しょうがの風味が効いてて、サクサクの食感でたいへん美味でした。メンチカツや唐揚げも人気のお店なんですよ。

 

 

店内にも水基が・・・

 

 

各所に水遊びができる場所が設けられているのも、子育て世代に人気の理由のようですよ。

 

 

14時半をまわっているというのに、あか牛を食べさせる店はもうどこも満杯。湧水茶屋なかまちがそれほど混んでいませんでしたので、立ち寄りました。

 

 

だご汁定食(900円)。県外のかたは、熊本に来たら、だご汁はぜひ食べて欲しいと思います。うすく伸ばした団子がはいっている豚汁という感じです。

 

 

湧水茶屋なかまちはスイーツのお店でもあります。抹茶ソフトクリームをいただきました。冷たくてうまい!こちらでは、湧水を使ったコーヒーなどもありますよ。

 

 

熊本地震直後は、風評被害で来客が減ったりもしたようですが、もうすっかり人が押し寄せるかつての元気を取り戻していました。

 

阿蘇神社のいま~震災からの復興

 

拝殿が全壊しているため、仮参拝所で参拝する方々。楼門や拝殿が全壊するなどの甚大な被害を受けながらも、いまも変わらず多くの人が訪れていることに、いたく感銘を受けました。

 

 

拝殿奥の三つの神殿は倒壊こそまぬがれましたが、いずれも損傷を受けているため、現在復旧工事が行われています。

 

「二の神殿」「三の神殿」はすでに部分解体工事にはいっています。取材当時の8/16現在、まだ解体工事にはいってない「一の神殿」も将来的に部分解体工事が予定されています。これらの神殿へは木製のフェンスが敷かれていて、現段階では近づくこそすらできませんが、フェンスごしに外観を見ることはできます。

 

いずれも全壊した拝殿と楼門は、昨年11月から解体格納工事を行っています。重要文化財であるため、同じ部材をもって再建する必要があるためです。

 

 

二の神殿。建物がゆがむなどの大きな損害はないものの、部分解体工事のために足場が組まれています。

 

奇遇なことに、熊本震災の前日にも阿蘇神社を訪れています。そのときは、こんなたいへんな状態になるなど夢にも思ってもいませんでした。

 

 

参道北側入口。歴史を感じさせる木製の鳥居があります。

 

阿蘇神社は御創立が孝霊天皇9年(紀元前282年)とされていまして、約2300年の歴史があります。主祭神である健磐龍命の子孫である阿蘇氏がいまも大宮司を勤めています。こちらが全国に450ある阿蘇神社の総本社になります。

 

 

第一神陵の神杉。樹齢700年だそう。

 

阿蘇神社は、阿蘇十二明神を祭神とし、そのなかでも、健磐龍命(たけいわたつのみこと)、阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)、國造速瓶玉神(くにのみやつこはやみかたまのみこと)を主祭神としています。

 

阿蘇神社の祭神

一の神殿

健磐龍命、國龍神、彦御子神、新彦神、若彦神

 

二の神殿

阿蘇都比咩命、比咩御子神、若比咩神、新比咩神、彌比咩神

 

三の神殿

國造速瓶玉神、金凝神

 

 

手水場にいた親子。こうやって歴史を子どもに伝えていくのも大事なことだと、ほほえましく思いました。

 

 

手水場は神の水として、手水と飲用以外の利用は禁じられていますので、このように水くみ専用の水場を用意されています。ポリタンクで水をくんでいる姿がよく見られました。

 

 

一之神陵。このように、神殿とは別に、主祭神健磐龍命のお墓が設けられています。

 

 

二之神陵。こちらは阿蘇都比咩命のお墓ですね。

 

 

一之神陵前の池。

 

 

還御門。今年の5月から部分解体工事中です。

 

 

日本三大楼門の1つ・・・なのですが、すっかり工事用シートに覆われていて、中をうかがうことはできませんでした。

 

 

阿蘇神社参道は、珍しい横参道です。そして、南北の参道入り口には、このように門番の神として守社が置かれています。これは南門守社ですね。

 

 

こちらは北門ですね。右手に北門守神が見えます。

 

 

御札所。楼門工事にともない、すこし西側に移設されています。この建物も一部損壊したそうですが、こちらは復旧しているようです。

 

 

仮拝殿。

 

 

仮拝殿外観。

 

 

ガイド案内所。

 

 

阿蘇神社の御朱印です。じつは今年の五月にも一度訪れております。

 

さて、「水基(みずき)巡りの道」については、また機会をあらためてご紹介させていただきますね。こちらは豊富な湧水を生かし、商店街各所に湧き水をひきこんで、その湧水の涼やかさを楽しみつつ、散策できるように整備されていますよ。