八代宮

八代宮の鳥居

 

八代宮は、八代城(松江城)跡にあって、征西将軍・懐良親王(かねよししんのう)を主祭神とし、その後に征西将軍職をついだ良成親王(よしなりしんのう)を配神としています。創建は明治17年で、南朝の功労者を祀る神社を建てて欲しいという八代市民の請願によって作られた神社です。

 

地元では「将軍さん」の愛称で呼ばれています。※八代神社とはまったく別の神社ですので、お間違えなく・・・。

 

八代宮の手水場

 

なぜ八代宮が八代城(松江城)跡の中にあるのか?といいますと、祭神となる懐良親王が一時居城としていたところ、という理由からとなります。

 

もっとも、懐良親王が拠点としていたのは、南北朝時代の八代城、すなわち古麓城でしたので、実は松江城ではないのですが、八代宮建立請願が出された当時、住民も政府もそう認識していなかった、ということのようです。

 

八代宮境内神社「霊社」

 

太平洋戦争での八代市郡の戦没英霊三千九百十四柱を奉じている霊社。昭和二十三年四月二日奉斎。

 

平成十年から十一年にかけて、太平洋戦争終戦五十周年記念事業として、改築が行われています。

 

八代宮の夫婦松

 

神門の前にある縁結びのパワースポット「夫婦松」。この下をくぐると二人は結ばれるとか・・・。

 

海軍少将加来止男碑

 

海軍少将加来止男碑も近くにありました。「加来」とわたしと同じ名前だし、もしかしてご先祖様かも・・・?

 

太平洋戦争にて、空母飛龍の艦長をつとめ、ミッドウエー海戦で戦死を遂げた方のようです。

 

 

 

駐車場は八代市役所・仮設庁舎のすぐそばにあります。とても美しい神社ですし、八代城跡に行ったらこちらにも参拝したいところですね。

 

ユネスコ無形文化遺産・八代妙見祭で知られる、八代神社

神社

 

今回から八代編となりますが、まずは八代妙見祭で知られる八代神社に来てみました!日本三大妙見の1つに数えられる神社です。妙見さんはいわゆる北極星信仰の神社ですね。

 

創建は795年(延暦14年)とのことで、八代、下益城、芦北三郡の一宮として大いに栄えたと言われています。(一宮とは、その地域でもっとも社格が高いとされる神社のこと。)

 

八代神社拝殿

 

八代神社の社殿群は入母屋造り千鳥破風が設けられています。現在の社殿群は1699年と1749年に改築されたもので、県の重要文化財にも指定されています。

 

全体的に朱塗りされ、妻飾りの霊獣の彫り物などがまた見事で、荘厳な作りに神社の風格を感じさせますね。

 

 

八代神社

八代神社は、明治4年(1871)まで妙見宮と呼ばれ、文治2年(1186)に検校散位(けんぎょうさんみ)大江朝臣高房がこの地に創建したと伝えられています。祭神は、北極星と北斗七星を神格化した天御中主神国常立尊です。

南北朝時代から戦国時代の混乱期を過ぎ、加藤氏による八代城完成と同年の元和8年(1622)に社殿が、また寛永13年(1636)には細川三斎公によって神輿と神輿屋、脇殿、拝殿などが再興されました。その後の元禄12年(1699)と寛延2年(1749)に、城主松井氏によって修復がなされ現在に至っています。

社殿は、屋根は入母屋づくり、正面に千鳥破風があり、数多くの緻密な彫刻が随所に施され、江戸時代中期から後期の社寺建築の特徴がよく表されています。

11月22・23日の秋季例大祭である妙見祭は九州を代表する都市祭礼で、「八代妙見祭の神幸行事」として国の重要無形民俗文化財に指定されています。

(現地案内看板より引用)

 

八代妙見祭展示館

 

八代神社には八代妙見祭展示館もありました。中にはいることはできず、外から観覧する形になります。八代ロータリークラブにより奉納されたものです。

 

八代妙見祭はユネスコ無形文化遺産「山、鉾、屋台行事」の一部としても登録されています。九州三大祭りのひとつでもあります。(他の2つは「博多山笠」、「長崎くんち」)

 

妙見祭の起源は明確にはわかっていないそうなんですが、いまから500年前には神幸行列や流鏑馬といった祭礼行事が行われていたことがわかっています。現在の神幸行列の原型を作り上げたのは細川三斎と言われています。

 

さざれ石

 

なぜか、国歌にうたわれている「さざれ石」が展示されていました。

 

さざれ石のそもそもの意味は、「小石」ということですが、国歌でいうところの「巌(いわお)」となった状態のさざれ石ということで、この塊となった状態(石灰質角礫岩)もさざれ石というようになったようです。小石の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって1つの大きな塊を形成したもの。

 

 

大楠と西南戦争

明治10年の西南戦争で、この一体(当時は宮地村)は官軍・薩軍の攻防が激しいところであった。戦禍は猫谷村・古麓村に拡がった。

この大楠(市指定記念物)は、中性の歴史と明治の戦いを眺め、その幹には多くの銃弾が撃ち込まれているという。

境内の樹木が台風で倒れたので製材に出したところ、銃弾が入っていて鋸の歯がつぶれたという。

江戸時代再建の妙見宮(八代神社)の社屋と共に、当時を偲ぶ数少ない語り部である。

 

 

毎年11月22日、23日が妙見祭となりますが、お祭り期間以外でもぜひ歴史ある神社を訪れてみてください。

 

 

日輪寺~赤穂十七義士遺髪塔のあるお寺

 

赤穂浪士由来の史跡が熊本にもあることをご存じですか。

 

赤穂浪士関連の史跡というと、浅野長矩と赤穂浪士が葬られている東京の泉岳寺や、兵庫県赤穂市にある赤穂藩の菩提寺であった花岳寺が知られていますが、山鹿市にある日輪寺にも赤穂浪士の遺髪塔というものがあります。

 

 

赤穂事件後、赤穂浪士は幕府から切腹が命じられますが、切腹するまでの五十日間の身柄を細川藩邸で預かりました。肥後藩士・堀内伝右衛門が彼らの接待役となり、日夜接待に全力を傾けたそうです。

 

切腹後、赤穂義士たちは遺言により浅野家墓所たる泉岳寺に葬られましたが、「せめて遺髪なりとも」と願い出て、それが許されて堀内伝右衛門が持ち帰り、日輪寺の境内内に遺髪塔を建立したとのことです。

 

 

日輪寺は、熊本ではつつじ祭りや桜の名所として有名かもしれませんね。その時期になると、3万5千株のツツジ(4月中旬)や200本の桜(3月下旬)が咲き誇ります。見頃になると多くの花見客でにぎわいます。

 

 

日輪寺は平安時代からの歴史あるお寺で、菊池武時、加藤清正、細川忠利といった歴代肥後藩領主より手厚い庇護を受けてきました。そのように長い歴史を持つお寺であるがゆえに、赤穂義士遺髪塔のほか、竜王山古墳などさまざまな史跡があります。

 

 

規模が大きいお寺なので移動も一苦労・・・。

 

造園が見事であるため、単に散歩がてらに歩くのも楽しいかもしれません。

 

 

お釈迦様の弟子の一人とされる、おびんずる様(賓頭盧尊者)の大仏。わたしの身長と比べていただくと、どれほどのスケール感かわかっていただけると思います。おびんずる様は十六羅漢の一人で神通力に優れ、病の人びとをいやしたと言われています。かつては体内にはいることもできたそうなのですが、熊本地震があってからは入れなくなったそうです。

 

 

おびんずる様をなでてから、自分の体をさするようにすると、その部分の病がいやされるといいます。大仏像の近くにある建物のなかに、涅槃像のおびんずる様もいらっしゃいますよ。

 

オブサン古墳

 

前回のチブサン古墳につづきまして、今回はオブサン古墳を取り上げていきたいと思います!チブサン古墳からわずか徒歩5分くらいのところにありますよ。

 

オブサン(産さん)古墳の名勝も、チブサン古墳(乳の神様)に関連付けて命名されたとのことで、昔から安産の神様として地元で信仰されてきた古墳です。

 

 

西南戦争では鍋田一帯(山鹿市)も戦場となり、高所に位置するこの古墳は政府軍の陣地となったようで、古墳には数多くの銃弾の跡が残されています。

 

その際に、石室内の閉塞石などの石材が運び出され、前庭部に防御壁が設けられたりして、石室内の破壊が進みました。

 

 

オブサン古墳は、自由に中にはいって見学できるようになっています。入口右側にある照明スイッチで石室を照らすことができます。

 

 

ただし、石室にはいれないよう、柵がしてあります。この場所から中を覗きみたり、撮影をしたりすることができます。

 

 

古墳入口を閉塞させるのに使われていた閉塞石。左が前室の、右が玄室の閉塞石です。これで外部から人の侵入をシャットアウトしていたわけですね。

 

前室の閉塞石には多数の銃弾の跡が認められます。破損していたために、接合修復が行われています。

 

 

出土遺物。古代の装身具などが見つかっているほか、西南戦争時の砲弾や弾丸なども出土しました。

 

古墳築造当時の出土品が玄室部から見られないのは、早い時期に開口されていたことによる盗掘によるものと思われます。

 

 

チブサン遺跡~オブサン遺跡~鍋田横穴古墳群~山鹿市博物館などの遺跡巡りツアーなどもオススメですよ!

 

チブサン古墳(国指定史跡)

チブサン古墳

 

山鹿市立博物館の近く、肥後古代の森の一角にあるチブサン古墳は、石室の近くまではいって、中の装飾古墳を見ることができる貴重な前方後円墳です。

 

古墳時代には日本各地で30万基とも言われるほど多くの古墳が築かれましたが、そのなかでも石室や石棺、横穴墓を彫刻や彩色で飾り付けた装飾古墳というものは、650基ほどしか見つかっていないのです。

 

 

チブサン古墳の石屋形(レプリカ)

 

名前の由来となった石屋形の文様。真ん中の2つ並んだ丸い文様が女性の乳房にも見えることから、地元では「乳の神様」として信仰されてきたそうです。

 

チブサン古墳の石人のレプリカ

 

右が石人といって、もともとはチブサン古墳のくびれ部付近に建てられていたのですが、現在は九州国立博物館(所有者は東京国立博物館)に保存されています。

 

 

チブサン古墳は平時は施錠されているため、中にはいるためには山鹿市博物館窓口で見学料を払い、見学申し込みをする必要があります。(10時、14時の2回、見学料100円)

 

※内部は撮影禁止でしたので、写真はありません!!その代わり、外部に文様が描かれている石屋形のレプリカを展示してあります。

 

 

この2つの丘陵からチブサン古墳と名付けられたのでは・・・?という感じさえします。

 

石室の入口は江戸時代の時点ですでに開いていたとのことで、葬られていたであろう人や副葬品などは残っていなかったそうです。

 

県立自然公園立神峽里地公園

 

立神峡は、昭和42年9月に五木五家荘県立自然公園特別地域に指定された立神峡公園の中核をなす渓谷です。キャンプサイトやディスクゴルフ場などが整備され、水遊びや魚釣り、キャンプなど、アウトドア・レジャーでにぎわう施設です。夏期は避暑地として人気ですね。

 

肥後の空滝とも言われる立神峡の大岩壁

 

「肥後の空滝」「肥後の赤壁」などとも呼ばれる大岩壁。高さ75m、幅250mに渡ってそびえ立っています。大パノラマで眼前に広がる大岩壁は、カメラのフレームに納まりきれません!

 

この壮大な岩壁は、八代市泉町を源流とする「氷川」が、古生代の石灰岩層を侵食してできたと言われています。

 

火の国橋

 

長さ70.6m、幅員1.0m、水面からの高さ20mという、氷川に架かる吊り橋による歩道橋。なかなかの恐怖感!!

 

火の国橋という名がついていますが、この地こそが火の国(=熊本県の雅称)発祥の場所だと言われているからでしょう。かつて、氷川は火打ち石が多く取れたことから「火ノ川」と呼ばれていたことから、立神付近から宮原一帯の集落を「火の村」と言っていました。この「火の村」が「火の国」の由来となっていると言われています。

※火の国の由来については不知火説など、諸説あります。

 

 

お手洗い&更衣室なども整備されています。

 

 

これからの季節、お金をかけずにお子さんを遊ばせるにはもってこいのスポットですよ。また、火ノ国発祥の地として、近年はパワースポットとしても人気が高まっていますよ。

 

秋山幸二ギャラリー

 

熊本県を代表するプロ野球選手・秋山幸二のギャラリーが氷川町にあるというので、行ってきました!

 

建物は大正14年竣工の旧井芹銀行本店のものですが、現在は宮原町まちづくり情報銀行という建物名になっています。(文化庁登録有形文化財第43-0066号)

 

 

走攻守の三拍子揃った選手として、埼玉西部ライオンズの黄金時代を支えた中心選手であり、福岡ダイエーホークスでは選手のみならず、コーチ、二軍監督を務め、2009年になると一軍監督を務めました。2014年に退任するまでに2度もチームを日本一に導きました。

 

 

背番号1番のユニフォーム。秋山さんは埼玉西部ライオンズ時代も、福岡ダイエーホークス時代も背番号1でしたもんね。福岡ダイエーホークスとしては、背番号1は秋山さん引退後は永久欠番にしたかったようです。

 

 

ベストナイン8回受賞、ゴールデングラブ11回受賞、オールスターにも18度選出されるなど数々の輝かしい功績を残した秋山氏の偉業を顕彰するこのギャラリーでは、2,000本安打達成のバットやゴールデングラブなど、普段見ることの出来ない貴重な品が多数展示されています。(氷川町HPより抜粋)

 

 

 

八代高校時代の表彰盾や表彰状、準優勝メダル、トロフィー、記念バットなど。

 

当時は大学進学の意思が強かったとされ、ドラフトでは指名されませんでした。しかし、ドラフト終了後にプロ入りを表明し、各球団の争奪戦の末に、1981年1月にドラフト外で西部ライオンズに入団しました。

 

 

2000本安打記念バット(下)と、野球殿堂入り記念バット(上)

 

2000年8月18日、対ロッテ戦で出場2000試合目で2000本安打達成。2000本安打達成は史上28人目、ドラフト制度確立後のドラフト外入団選手としては、史上はじめてのことでした。

 

 

毎週月曜日と祝日、年末年始はお休みとなりますので、お気を付けくださいね。入館料は無料ですよ。駐車場は向かいにある宮原振興局の駐車場を利用することができます。

 

熊本協同隊ゆかりの地~植木学校、保田窪菅原神社

植木人民共立小学校跡地

 

わずか半年しか存続しなかった、宮崎八郎たちが開設した植木学校の跡地です。マンションの一角の花壇にひっそりと建っていて、植木町に住んでいても知らない人がいそうなくらいです。昔はもう少し広く残されていた気がするのですが・・・。

 

宮崎八郎といえば、西南戦争のさいに熊本協同隊を率いた人物として有名ですね。打倒・明治政府という目的が同じであるために、熊本県民でありながらも薩摩軍として参戦をしました。この植木学校は、その宮崎八郎や広田尚らで作った学校となります。半年しかありませんでしたが、熊本の自由民権運動のさきがけとなり、また植木学校関係者を中心に熊本協同隊が結成されるなど、その存在感は大きかったようです。

 

 

右手に現在の植木小学校が見えています。

 

植木学校跡

 

ここは明治八年(1875)四月二十六日に開校した変則熊本第五番中学校、通称植木学校のあったところである。もとは山本郡正院手永会所(現在の町役場のような施設)があり、これを改造して校舎とした。

 

同校は宮崎八郎等の熊本民権党が中心となり設立、運営した極めて先進的な学校で、中江兆民の訳によるルソーの「民約論」を経典とした。自由民権主義者の養成所として植木学校の名は高まり、盛時には八〇名近くの若者が在籍していたという。

 

しかし、鹿児島私学校と気脈を通じ、戦闘訓練を行う等したことから、県と反目して補助金を打ち切られ、同年十月末、僅か半年で閉校するに至った。

 

同校の関係者は城北の農民一揆「戸長征伐」を指導、明治十年の西南戦争では熊本協同隊を組織して薩軍に参加し、後には自由民権思想の普及に尽力した。

(平成三十一年三月 熊本市/現地案内板より)

 

熊本共同隊出陣の地(保田窪菅原神社)

 

西南戦争が勃発すると、武装蜂起した薩摩軍に呼応するかたちで、ここ保田窪菅原神社にて熊本共同隊が結成されました。

 

 

熊本共同隊出陣の地

 

西南の役(明治10年)に際し、植木学校を中心にまとまっていた熊本民権党は、専制政府を倒すことでは同じ考えだとして、薩軍に呼応することに決した。明治10年2月20日、同志40名はこの神前に集結して出陣式をあげ、投票で平川惟一を隊長に、宮崎八郎を参謀長にえらび、檄文を読み上げて隊名を「共同隊」と定めた。隊は翌21日薩軍本営に入ったが、隊士はのちに400人をこえた。

(現地案内文より)

 

 

熊本共同隊を率いた宮崎八郎は、西郷が自由民権論者ではないことは分かってはいましたが、ともに明治政府を討伐してから西郷と競って天下を取る、という思いがあったようです。しかし、薩軍は次第に追い詰められてゆき、宮崎八郎は八代の萩原堤で官軍に鉄砲で撃たれて戦死しました。

 

日本を正しい方向に導こうと、命を賭して戦った方々がいたことを、忘れてはいけませんね。

 

石匠館

東陽石匠館の入口付近

 

熊本は石橋の宝庫であることを知っていますか。眼鏡橋の96%が九州に分布し、その半数は熊本県にあると言われています(熊本県HP「石橋のふるさと」より引用)。

 

その理由は、種山石工(たねやまいしく)と呼ばれる技術集団が熊本にあったからなのです。その種山石工の功績を紹介するのが、この東陽石匠館となります。

 

東陽石匠館の入口にあるアーチ状の門

 

東陽石匠館(とうようせきしょうかん)

江戸時代後期、下益城郡美里町の霊台橋【弘化4年(1847)完成】や、上益城郡山都町の通潤橋【嘉永7年(1854)完成】などの築造を手がけた石橋の技術者集団「種山石工」の功績を紹介しています。

 

種山石工の代表的な石工のひとり、橋本勘五郎の生家前に建っており、当時の石材運搬や組み立ての知恵なども学ぶことができます。

 

鹿児島市の甲突川に架けられた五つの石橋、いわゆる甲突川五石橋【弘化2年(1845)~嘉永2年(1849)にかけてそれぞれ完成】は野津石工岩永三五郎、東京の神田筋違目鑑橋【明治6年(1873)完成】と浅草橋【明治7年(1874)完成】は橋本勘五郎が手がけています。

 

平成28年3月31日 八代市教育委員会

 

鍛冶屋石橋群散策路マップ

 

石匠館の脇を流れる鍛冶屋谷には、林七や橋本勘五郎が研究のためにかけたとされる小さな石橋が5つあります。石匠館は撮影禁止のため写真のご紹介ができませんので、今回はその5つの石橋をご紹介いたします。

 

谷沿いには遊歩道(鍛冶屋石橋群散策路)が整備されており、往復30分ほどでまわることができます。遊歩道沿いには、橋本勘五郎生家や、橋本勘五郎の墓、林七の墓などもあります。

 

鍛冶屋下橋

 

これは東陽石匠館のいちばん近くにある鍛冶屋下橋(市指定有形文化財、昭和63年3月1日指定)。林七が試しに架けた石橋と伝えられており、技術面で他地域からの影響を受けていないのが特徴と言われています。

 

橋本勘五郎生誕の地

 

石匠館の道向かいにある、橋本勘五郎生誕の地。

 

種山石工 橋本勘五郎 生誕の地

橋本勘五郎(当初の名は丈八)は、ここ東陽町(旧種山村)西原の地に、石工嘉八の三男として文政五年(1822年)六月に生まれました。

 

血縁者はほとんど石工で、この一族は県内はもとより九州、東京に数多くの名橋をかけています。

 

嘉永七年(1854年)竣工した山都町(旧矢部町)の通潤橋の架設にあたっては、石工頭の兄宇一のもとで、丈八は副頭として天才的な技能を発揮し、その技術が認められ明治六年には明治政府から招かれて上京、神田筋違目鑑橋(のちの万世橋)を架設しました。このほか、浅草橋などの名橋を手がけました。

 

明治七年夏には熊本に帰り、その後熊本市の明八橋明十橋、菊池市の永山橋、御船町の下鶴橋など多くの眼鏡橋を残しています。

 

明治三十年八月十五日、七十五歳で勘五郎はこの世を去りましたが、勘五郎の架設した眼鏡橋は一体幾つあったのか、はっきりとはわかっていません。眼鏡橋の美しさは、勘五郎のまじめな人柄そのものであったようです。

 

熊本県教育委員会は、昭和四十年十一月三日勘五郎を熊本県近代文化功労者として顕彰しています。

 

東陽まちづくり協議会(現地看板より引用)

 

鍛冶屋自然橋

 

鍛冶屋自然石橋(石工/石橋勘五郎、明治28年頃)

 

看板はあれど、目を皿のようにして探してみましたが、どう見ても石橋のようなものがありませんでしたので、おそらくは流されてしまったのでしょうか・・・?

 

鍛冶屋中橋

 

鍛冶屋中橋(石工/林七、文化年間)

 

種山石工の祖とされる藤原林七の作。彼は元は長﨑奉行所の役人だったそうで、そのころ出島を訪れたオランダ人から目鑑橋の技術を学びました。しかし、当時は外国人と接するのは掟破りのことでしたので、林七は種山村に逃亡し、身を隠しました。その間に石工の技術を会得し、熊本独自の目鑑橋技術を完成させたと言われています。

 

鍛冶屋上橋

 

鍛冶屋上橋(石工/林七、文化年間)

 

順路とされるところに金網が張ってあるので入れず・・・。もしかして地震の影響で道が崩れたりしたのでしょうか・・・?

 

 

散策路は往復30分といえど、行きは上り坂が続くので、結構たいへんです。見学時間もあわせれば、所要時間としては、1時間は見ておいたほうがいいんじゃないかな・・・。

 

大久保自然石橋

 

大久保自然石橋(石工/橋本勘五郎、明治28年頃)

 

100年以上前に橋本勘五郎が試しに作った石橋が、大雨などでも流されずによくぞ現存しているものだなと、感心しました。

 

橋本勘五郎墓碑

 

橋本勘五郎の墓碑。

 

今回ご紹介できませんでしたが、石匠館資料館もたいへん見応えのある資料の宝庫となります。みなさんも、熊本の石橋のふるさとを覗いてみませんか?

 

不動岩

 

熊本県山鹿市の蒲生(かもう)にある不動岩は、熊本県指定の奇岩名勝となっている珍しい岩です。

 

岩の根元には不動神社があって、そこから見下ろす山鹿の景色は素晴らしいですよ!

 

 

この不動岩は高さは80mもあって、根回りは100mの巨岩となっています。岩を近くでよく見ると、大小の石がくっついて、1つの巨岩を形成していることがわかります。このように出来た岩を礫岩(れきがん)といいます。

 

この不動岩を歌った「みいくさの 神の姿を仰ぐかな 平伏す岩は まつろえる神」という古歌が残されています。

 

 

3~4億年前といわれる古生代の変斑糲岩(へんはんれいがん)を主として構成されていますが、それらが崩れてさざれ石となり、それが海に流され海底に堆積し、強い圧力や熱を受けておおきな岩盤を形作り、長い年月をかけて削られてこのような形になったとされます。国家「君が代」に「さざれ石の巌となりて」というフレーズがありますが、まさにその状態といえます。

 

1億年前の花崗岩がふくまれているので、おそらくはそれよりは新しい岩石であると言われていますが、正確な年代はわかっていません。

 

 

 

不動岩の名前の由来となる、不動神社。「不動岩」とは、平安時代に山伏たちがこの山中にこもり、不動明王を本尊として奉り、修行に明け暮れたことに由来しているとされます。

 

平成29年に神社が再建されたようで、20年以上前に来たときとは様変わりしていました。そのときには道路もところどころ舗装されていなかったんですが、いまでは山中まできちんと舗装がなされていました。(それにしたって、狭い道路なので、離合は難しいのですが・・・)

 

 

さまざまな年代の記念碑等がならんでいました。長い年月、地元に親しまれてきた場所だという証拠でしょう。

 

 

展望所からのながめ。車で登るのもかなりたいへんな場所となりますが、それでもときどき、ここまで来て休憩していました。

 

 

駐車場も整備されており、きれいなトイレもありますので、安心して来れますよ!

 

ただし!離合困難ですので、運転は慎重に。遊歩道が整備されていますが、足腰に不安のある方を同行させるのでしたら、観光タクシー「加来タクシー」の利用も、ぜひご検討くださいね。