福の神大黒天~宝くじの神様

 

阿蘇・内牧温泉郷のはずれに、はな阿蘇美という複合観光施設がありますが、その裏手に、知る人ぞ知る、宝くじの神様がいらっしゃいますよ。場所は、加藤清正公の家臣であった、右馬允公様のお墓のすぐそばです。写真の石階段を上れば、右馬允公様のお墓に行くことができますよ。

 

はな阿蘇美について

はな阿蘇美のある土地は、かつて天下一家の会という、日本最大のネズミ講組織の本部があったところとしても知られています。その本部跡地はオウム真理教が買おうとしたので、町があわてて7億円で買収した、というエピソードがあります。

 

 

 

なんでも、新町活性化福の会会長の湯浅陸雄さんが、この付近に球根を植えようと土を掘っていたら、地中30cmのところにこの大黒天様が埋まっていたそうです。

 

そして、その大黒天様の姿が富くじを数えているようなお姿だったことから、お金について御利益のある神様ということで地蔵堂を建立し、宝くじの神様として祀られるようになったということです。

 

 

こちらにお参りされた方のなかから、3億円が4本出ているそう。その他、試験に合格した、子宝をさずかったなど、さまざまな御利益があるそうです。

 

 

平成七年一月、公園整備中に地中五〇センチメートル位から出土、年代は不詳ながら、かなり古いと思われる。手に持っている物が昔の富くじに思われる由、福の神大黒天と名付けた。(木碑にあった案内書より抜粋)

 

 

参拝の方法も一風変わっています。

1)2礼2拍

2)唱文「オンマカ、キャラヤ、ソワカ」×5回

3)お願い事をする

4)1礼2拍

 

 

では、さっそくわたくしも・・・

 

 

福の神大黒天のグッズ販売所。行ったときにはしまっていましたが、何が売ってあったんでしょうか・・・。

 

 

このようなパワースポットは阿蘇には点在しておりますので、熊本でパワースポット巡りをされたいかたは、加来タクシーをご指名くださいね。

 

檜垣寺(九品山浄土院蓮台寺)

 

宮本武蔵が五輪の書をしたためたとされる霊巌洞(れいがんどう)。雲巌禅寺(うんがんぜんじ)のなかにあるのですが、そこで桧垣媼(ひがきのおうな)の伝説を知ったという人は、意外と多いのではないでしょうか。雲巌禅寺には、檜垣が岩戸観音(=雲巌禅寺)に日参していたという逸話が残されています。

 

檜垣は、白川のそばに草庵を結び、観音像を安置した・・・とされていますが、蓮台寺(れんだいじ)は、まさにその檜垣の草庵の跡に建っているのです。

 

 

蓮台寺の塀の、住所表記にご注目ください。実は、地名もそのまま「蓮台寺」でして、江戸時代には蓮台寺村、明治後期から昭和初期にかけては、白坪村大字蓮台寺と呼ばれていました。

 

この地にあった草庵から岩戸観音まで、檜垣が日参したとされていますが、その距離をネット地図で経路検索をしてみますと、最短距離で10.6kmありました。足腰が丈夫な人で2時間ちょっと、というところでしょうか。現実的に徒歩で往復できない距離ではないですが・・・。

 

 

本堂には、熊本地震の影響が残っているようで、ブルーシートがかかっています。白川のほとりにある蓮台寺ですが、実は白川改修工事の際に、寺域が狭くなってしまったのだということです。

 

 

謡曲「檜垣」と蓮台寺

汲んだ水を報謝のためにと毎日岩戸観音に供える痛々しい老女があった。奇特に思った僧は水を汲む井戸を尋ね、昔、大宰府で舞の誉れ高い白拍子檜垣の亡霊である事を汁。

僧の回向を受けた桧垣は、昔を思って舞を舞い、なおも回向を乞いつつ消え去るのであった。

謡曲「桧垣」は、主題歌「年ふれば我が黒髪も白河の水はぐくむまで老いにけるかな」を軸とし老衰と因果の苦を、水を汲むことにかけて言い表して、有為転変のはかなさを語りかける名曲である。

蓮台寺は千有余年の歴史を持つ古刹であり人皇六五代花山天皇の頃、閏秀歌人桧垣がここに草庵を結び、観音信仰の生活を送った事が寺歴に記され、境内には墓と井戸がある。

謡曲史跡保存会

 

 

桧垣の井戸

桧垣は、平安時代の女流歌人で蓮台寺に住み、岩戸観音を篤く信仰したと云われている。

肥後の国司、歌人としても名高い清原元輔との交流が深く、「桧垣集」にこの贈答歌が見られる。

この井戸は桧垣が使ったと伝えられる。

 

 

くまもと水守(水ガイド)として、熊本県内の水遺産はひととおり回りましたので、そのときに蓮台寺には一度訪れたことがありました。ここは面白くて、水遺産に指定されていますが水が見えない、というパターンなんですよ。

 

 

白川の氾濫の犠牲者を悼むため、明空上人が作り上げた千体地蔵。

 

 

地蔵群の中央には、昭和58年11月の地蔵堂改築のときに発見された放牛地蔵ゆかりの台石があります。(この写真では左端の小屋のところ)

 

毎年9月24日には千体地蔵まつりが行われています。

 

 

桧垣の塔は、加藤清正の時代には熊本城内に移されましたが、加藤家改易後に肥後に入国した細川忠興の目にとまり、蓮台寺に戻されました。文化的素養が高かったために、桧垣のことを知っていたのでしょう。

 

 

なお、返還の際、基礎の1段が返還し忘れになっているとか・・・。

 

 

蓮台寺と隣接している天満宮。

 

 

帰りがけに、御朱印もいただきました!

 

桜の馬場城彩苑近辺から見た、熊本城のいま

 

熊本城の現況を、外からうかがい知る方法ですが、前回は加藤神社から見る方法をご案内いたしました。今回は、桜の馬場近辺から見ていきましょう。

 

これは撮影場所は御幸橋のたもとで、崩れているのは馬具櫓の石垣です。左の熊本城の石碑が、角度がずれてしまっているのにもご注目ください。

 

特別史跡 熊本城

日本三名城の一つに数えられる熊本城は、加藤清正が幾多の実戦の経験を生かし、慶長六年(一六〇一年)から七ヶ年の歳月を費やして完成したものと伝えられている。周囲五.三キロに及ぶ豪壮雄大な構えで、百二十余の井戸を掘り、かつては櫓四十九、櫓門十八、城門二十九を数えた。

明治十年(一八七七年)の西南戦争で多くの建物を焼失したが、薩軍の猛攻撃に耐え、名城としての真価を発揮した。

熊本城の石垣は、特異な勾配と堅牢さで知られ、「武者返し」の石垣と呼ばれている。なお現在の天守閣は、昭和三十五年(一九六〇年)に再建されたものである。

(熊本市/案内板から引用)

 

 

飯田丸五階櫓の工事をやっている工事関係者が、「写真撮るなら、ここからがよく見えるよ!」と言ってくださいましたので、近くによって撮ることができました。馬具櫓の石垣の崩落部分です。

 

馬具櫓

馬具を収納したことから名前がついたと考えられる櫓で、平成26年に復元されました。本震で石垣に膨らみが生じ、度重なる余震の影響で、5月10日13時56分に崩落しました。

(熊本城調査研究センターの掲示文から引用)

 

 

竹の丸では、現在、飯田丸五階櫓の石垣復旧工事が進んでいます。一本足でふんばっている、あの飯田丸五階櫓ですね。

 

 

御幸橋のたもとには、加藤清正公の座像があります。

 

熊本には清正公の像は各所にありまして、例をあげると、健軍神社参道には馬上の清正公、八景水谷公園には土木治水工事を指揮する清正公、本妙寺の上に槍を天につきあげた清正公がいらっしゃいます。(あと、たしか柿原養鱒場にも清正公の像があったような気がします・・・、今度確認してきますね。)

 

 

熊本城の南側に沿って坪井川が流れていますが、その沿道は石畳で作られた遊歩道になっていて、熊本城をながめつつ散歩ができるスポットになっています。

 

 

坪井川にかかるこの行幸橋。熊本城の入り口にかけられたこの橋は、築城当時にはなかったものです。

 

もともとはこの20mほど東側に、下馬橋という橋がかけられていましたが、この旧橋は狭くて急だったので、天皇の行幸にあわせて、御馬車が通れるように新しくこの行幸橋をかけたのですね。

 

行幸橋

明治三十五年(一九〇二)、明治天皇が熊本に二度目の行幸をされた。当時、下馬橋から城内に入る南坂は傾斜が急で、曲折も多かったので陸軍は、この坂を改修して傾斜をゆるやかにし、末端の坪井川に、新橋をかけて天皇の御馬車が通れるようにした。このとき旧来の下馬橋は撤去され、新しい端が新下馬橋と呼ばれたが間もなく天皇の行幸を記念して、この端を行幸橋、新坂を行幸坂と名付けた。行幸橋から眺めた花見時の景色は、古くから熊本の人々に親しまれている。

(熊本市、案内板から引用)

 

 

もう下馬橋は跡形もなくなった・・・と思いきや、実は一部、橋の名残が当時のまま残されています。

 

 

下馬橋跡

下馬橋は、花畑邸前から坪井川を渡って本丸に通じる橋である。城内に入るとき、ここから先は馬を降りることになっていたため、この名がついている。明治35年、行幸橋、行幸坂が新設されたときこの橋は撤去された。

 

 

行幸橋を渡って、行幸坂のほうに行こうとすると、このように車両通行止めとなっています。(お花見の時期に歩行者のみ通行が許可されたことがあります。)そのため、加藤神社に行こうと思ったら、熊本城の東側をぐるっと迂回して、京町側から入るしかありません。

 

 

城彩苑の入り口に、竹細工の「復興」の文字が刻まれたオブジェがありました。

 

これは山都町の神社で毎年恒例で行われている「みたけ竹灯り」のイベントで制作されたもので、今年のテーマは「復興」ということから熊本のシンボルである熊本城が描かれたということです。約20名で1ヶ月かけて作り上げた作品だということです。今年の5月末まではライトアップも行われていました。

 

 

城彩苑の入り口広場。

 

 

明治時代には熊本城は、熊本鎮台という陸軍施設として使われました。

 

桜の馬場城彩苑のあたりは、兵器庫として使われていたようです。城彩苑の駐車場の近くに、「近代のレンガ造りの建物跡」として、陸軍施設時代の基礎の一部が展示されていますので、探してみてくださいね。

 

近代のレンガ造りの建物跡

ここには、平成20~21年度に行われた発掘調査で発見されたレンガ造り建物の基礎の一部を展示しています。

旧日本陸軍時代の建物で、規模は幅約14m・長さ80~90mと長大で、基礎も頑丈に作られています。そうした建物が4棟並んでおり、主に、兵器等を格納しておくための施設でした。熊本城には400年の歴史があり、もちろん、その本質的な価値は江戸時代の城郭にあります。しかし、その後の明治以降の近代において、約80年にわたり軍用地として使用されたということも重要な歴史事実です。このレンガ造り建物は、熊本城の近代を物語ることのできる、数少ない歴史遺産なのです。

(平成23年3月熊本市/案内板から引用)

 

 

城彩苑には、飲食店やお土産屋、歴史体験施設などが多数ありますので、行くところに困ったらここに来ると、熊本の食を堪能できると思います。

 

 

城彩苑から、二の丸公園および二の丸広場へ通じる階段があります。二の丸公園からも熊本城をながめることができますよ。

 

 

なお、観光客に人気の城彩苑ですが、慢性的な駐車場不足が集客の足をひっぱっていると言われています。

 

そのため、城彩苑の西側に隣接する合同庁舎跡を駐車場として整備する計画があるそうですが、遅々として進んでおりません。業を煮やした熊本商工会議所等から「熊本合同庁舎移転後の跡地利用を契機とした桜の馬場地区整備事業の促進について 」なる要望書も当時の幸山市長に提出されたとか・・・。要は駐車場が足らないから急いで整備しないと観光客をよそに取られてしまうよ!という内容なのですが・・・。

 

 

取材におとずれた2017年7月時点ではまだ合同庁舎の解体工事をしていましたので、もう少しこの状況は続きそうですね。それにしても、震災の影響があってもなお、駐車場が足らないほどの来客があるというのは素晴らしいことだと思います。

加藤神社から見える熊本城のいま

 

熊本城はいまでは各所崩落しているため立ち入りができませんが、加藤神社からすこしなら現状が見れますので、ご紹介してみたいと思います。

 

写真は、戌亥櫓(いぬいやぐら)といって、飯田丸五階櫓といっしょで、一本足でなんとか残っている櫓の1つです。こちらは加藤神社に行く途中で、車から見ることができます。

 

 

加藤神社は名前のとおり、加藤清正公を祀る神社です。もともとは本妙寺内の浄地廟がその役目を担っていましたが、明治政府から神仏分離令が布告されたことにともない、本妙寺・浄地廟の神社部分を分離し、熊本城内に錦山神社を創建したのがはじまりとされます。(明治42年に錦山神社から、現在の加藤神社に改称されました。)

 

 

加藤神社の鳥居からすこし出たところから、宇土櫓を見ることができます。熊本城は天守閣を含めほとんどが、昭和35年に再建されたものですが、宇土櫓だけは、建物から石垣に至るまで築城当時のまま残る、熊本城で最も古い施設です。

 

その宇土櫓だけが地震でほぼ無傷だったといいますから、加藤清正公の築城技術のすごさに気づかされます。

 

 

2017年7月時点の立ち入り禁止エリア。加藤神社側から見る方法(図の黄色のルート)と、二の丸駐車場から見る方法、桜の馬場デッキから歩いて行く方法などがあります。御幸坂はいまでの通行止めが続いています。

 

 

頬当御門(ほほあてごもん)に、工事用の橋がかけられています。ここから資材を搬入するのでしょう。

 

 

西出丸はほぼすべて、工事用資材置き場となっています。

 

 

ニュースで見た人も多いかと思いますが、崩落した石垣から現れた観音様も、加藤神社の境内内で展示されています。

 

 

このような観音様が石垣の裏に隠れていたんですね・・・。石垣用の石材をかき集めてくる際に、墓石やら板碑までも持ってきてしまったのでしょう。ありがたい、というよりは・・・、当時の石工もなんとも罰当たりなことをするもんだな、と思いますが・・・。

 

 

熊本城天守閣の修繕の様子も、加藤神社境内から見ることができます。左側(手前)が小天守、右側(奥)が大天守です。

 

 

ここからは、加藤神社のことをご紹介していきます。拝殿にはくまモンだるまが置いてありました。

 

 

清正公お手植えの樹。大天守前の銀杏と共に、加藤清正公がお手植えされたものと伝えられています。

 

 

お手植えの樹ではない種子も発芽して、いろんな植物がからみあっていて、力強い生命力を感じます。

 

 

境内内にある小さな神社を末社といいます。加藤神社の末社では以下のような神様を祀っています。

猿田彦神 ・・・・ 道開き・道びきの神
菅原道真公 ・・・・ 学問の神
大国主神 ・・・・ 福徳円満の神
恵比寿神 ・・・・ 商売繁盛の神
※例祭日 毎年10月5日 午前10時より(加藤神社Webサイトより引用)

 

 

清正公の旗立石。文禄の役記念として、明治42年に肥前名護屋城より移したもの。

 

 

拝殿には加藤家の家紋である「蛇の目紋」「桔梗紋」が見えます。なぜ、加藤家には2つも家紋があるのでしょうか?蛇の目紋がもともとの加藤家の家紋で、桔梗紋はいったいどこから?

 

これは、肥後入国の際の加藤清正公の境遇が関係しています。清正公は肥後入国前は5500石でしたが、一気に出世して、肥後北半国19万5千石を任されることになりました。当然、家臣も調度品もまったく足りません。そこで豊臣秀吉がとりはからって、讃岐で改易された尾藤知定氏の武具や調度品を清正に与えました。

 

秀吉より賜った食器類には尾藤家の家紋である桔梗紋がありました。加藤清正はこれを加藤家の家紋として、そのまま取り込んだのです。そして、尾藤家の家臣300人もあわせて召し抱えたといわれています。そのため、武具には蛇の目紋、調度品には桔梗紋が使われたということです。

 

 

熊本市は震災で立ち入りができなくなった施設があったり、通れなくなった道路などがあちこちにあります。ぜひ、地元の事情に熟知した観光タクシードライバーをご活用くださいませ。さまざまな歴史検定を持つ観光ガイドとしてもお役に立てるかと思います。

 

淡成居~後藤是山旧居

 

後藤是山が使用していたという安楽椅子。

 

前回、後藤是山記念館を訪れた際は、まだ熊本地震の影響で復旧をしていませんでしたから、中を取材することができませんでした。今回はちゃんと中を見てくることができましたので、改めてご案内させていただきます。後藤是山とは何ぞや?という方は、まずは前回記事をご覧ください。

 

 

案内図。なかなかの広さです。上の安楽椅子は、ここでいうガラス戸の部屋になります。

 

 

茶の間。小さいながら囲炉裏があって雰囲気がいいですね。ガラスや障子、畳は新しいものに入れ替えられていますが、調度品や柱、壁、天井などは、当時のままだそうです。

 

 

昔の鉄のアイロン、懐かしいですね。

 

 

廊下。

 

 

座敷の南側の部屋。床の間になっています。じつはこの床の間、熊本藩藩校時習館教授として知られる、藪孤山(やぶこざん)から譲り受けた武家の床の間だそう。

 

 

床の間のふすま絵。一部破けており、また、すすけて黒っぽくもなってはいますが、なんとも豪奢で見事。落款印も確認できます。

 

 

鶴の図案を用いた釘隠し。

 

 

座敷を仕切る鴨居の上には、見事な透かし彫りが・・・!

 

 

当時のままの水屋箪笥。

 

 

友の部屋では、是山の年表や、作品展示がなされていました。

 

 

友の部屋。昔はこの一帯には建物がなにもなくて、阿蘇山まで見渡すことができたといいます。

 

 

ご案内くださった館長様、長々と歴史談義にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

 

 

個人の邸宅としては大きいものだとはいえ、じっくり見てまわって解説を聞いておりましたら、1時間以上滞在していました。展示物もそうですが、建物自体が歴史があって見応えがありますので、楽しいですよ!資料館も展示物たくさんで、広い施設ではないものの訪れる際には結構時間を長めに見ておいたほうがいいかもしれませんよ。

 

細川忠利公火葬場跡~阿部一族

 

かの細川忠利公を荼毘に付したとされる、熊本市西区春日の「岫雲院」(しゅううんいん)。1071年創建といいますから、実に1000年もの歴史を誇る由緒正しいお寺です。

 

ただし、春日に古くから在住のかたはご存じかもしれませんが、近年は荒れ果てる一方で、廃墟としか表現のしようのない荒廃ぶりでした。(当時の写真を撮っておけばよかった・・・)ところが、熊本駅新幹線口の区画整理の際に、岫雲院は綺麗に再建されていました!

 

 

岫雲院の一角にある、この石垣に囲まれたエリアは、細川忠利公火葬場跡として、市指定史跡になっています。

 

肥後細川藩初代 細川忠利公火葬場跡

ここに四面を石垣で築いた区画の中に、大小の石塊を積み上げ、その中央頂点に「妙解院殿前越州太守羽林雲五公居市神儀」と彫った石碑が建てられている。岫雲院という名は忠利の命名によると伝えられ、また忠利が生前に、自分が死んだらこの寺で火葬してくれと遺言していたため、寛永十八年三月にその遺骨を荼毘に伏した。そのとき忠利愛育の鷹二羽も同時に殉死したと伝えている。

 

 

火葬場跡に建てられた石碑。下の方で真っ二つに割れてしまっています。

 

 

細川忠利公火葬場跡を、少し引いたアングルから撮影したものがこちら。熊本震災の影響か、石が崩れています。

 

 

火葬場の正面階段がこちらですが、現在は駐車場になっていて、なんとこの階段を使って下に降りることができなくなっています・・・。あとからできた駐車場によって塞がれた恰好なのでしょうが、なんというか、残念なことになっていますね・・・。

 

 

こちらは、忠利公がなくなった際に、飼っていた鷹が殉死したとされる井戸。いまでは立派な屋根がついているので、これでは鷹が飛び込み自殺しようにもできないような気がします。

 

岫雲院春日寺
寛永年九年(1632年)に肥後の国主となった細川忠利は春日寺を再興して岫雲院の名を与えたので、以後は岫雲院が正式の名称となった。

忠利の死後、遺言によって遺骸をこの寺で荼毘に付したが、そのとき解き放たれた愛養の二羽の鷹のうち、「有明」は火葬の焔の中に飛び込み、「明石」は傍の井戸の中に飛び込んでともに殉死したという哀れな物語が伝えられている。

森鴎外の「阿部一族」で知られている忠利の殉死者十九名の位牌もこの寺に安置されている。

平成二十八年 熊本市観光政策課

 

 

細川忠利公が亡くなったあとは、19人が追い腹を切って殉死しました。その方々の位牌もこちらのお寺に安置されているとのことです(お墓は妙解寺跡、いまの北岡自然公園にあります)。

 

細川忠利公の殉死にまつわる話としては、「阿部一族」という森鴎外の小説が思い出されますね。忠利公に殉死を許されなかった阿部氏が、他の家臣が次々追い腹を切っていくなか、殉死せずにいままで通り奉公しつづけたことで周囲に責められたので、追い腹を切ったところ、「殉死まかりならぬ」との主君の命にそむいたとみなされて家格を下げられてしまい、ついには藩からの討伐隊に阿部一族が皆殺しにされるという、悲しいお話でした。

 

※もっとも、阿部一族はあくまで創作ですので、史実とは異なる部分もあるようです。記録では阿部氏は他の殉死者と同じ日に亡くなっているようですし、そもそも殉死の許可を出すのは、亡くなった主君ではなく、それを継ぐ新主君が行うことであり、つまりこのときは忠利を継いだ細川光尚が行うことだということです。そして、殉死者全員に「殉死まかりならぬ」という命が下っていたということでした。

補陀落渡海供養塔附石塔群~生きては戻れぬ捨て身行

 

補陀落渡海(ふだらくとかい)という捨て身行があることを、ご存じでしょうか。

 

観音菩薩の住処があるという南方の海の果て、「補陀落世界」を目指して、行者が、帆や艪(ろ)といった動力をなにも持たない木船に乗り込み、船出をするというものです。

 

船出といっても、沖まで曳航して切り離し、あとは海を漂うだけですので、生きて帰ることはありませんでした。なかには、自発的なものだけでなく、なかには他人から強制されて流された者もいたらしいです。船室は外に出られぬよう釘が打ち付けられ、灯火のための油と、30日分の食料だけ持たされたということです。

 

 

この、補陀落渡海での航海の安全と、大願成就を祈願した石碑が、玉名市繋根木(はねぎ)の稲荷神社(繁根木八幡宮)にあります。つまり、玉名市を出発地として行われた補陀落渡海があったというわけですね。この石碑は西光坊が施主となって建立されたという記録が残っています。

 

肥後藩からの補陀落渡海は2例記録に残っており、ここ繁根木八幡宮のほか、もう1つは玉名市伊倉北方の報恩寺跡にもそのような石碑があるそうです(県指定重要文化財)。

 

 

写真の右側の石板が、補陀落渡海碑です。石碑の表面には、日、月、中央に阿弥陀、観音、勢至の阿弥陀三尊の線刻と、刻文があります。表面が風雨に削られ、わかりづらいと思いますので拡大してみましたが、それでもかなり分かりづらいですね。

 

なお、阿弥陀三尊の簡単な見分け方ですが、真ん中におわすのが阿弥陀菩薩、髻(もとどり)の正面に阿弥陀の化仏がおわすのが観音菩薩、髻の正面に水瓶があるのが勢至菩薩です。注意深く見分けてみてください。

 

 

玉名市指定重要文化財

補陀落渡海碑並びに宝塔塔身(昭和三十七年三月三十一日)

三基の板碑と一基の宝塔塔身があるが、これらの石造物のうち、向かって右側の阿弥陀三尊来迎図を刻んだ板碑が補陀落渡海碑である。

補陀落渡海とは、海上にあるとされる観音信仰における補陀落浄土を目指して往生(船出)することで、その供養として立てられたのが補陀落渡海碑である。

この補陀落渡海碑は、永禄十一年(一五六八)十一月十八日に、下野国の弘円上人、駿河国の善心、遠江国の道円らが補陀落渡海したのにちなみ、西光坊が施主となって建立したもので、現存の補陀落渡海碑は、本市の伊倉本堂山及び大阪府泉南市の一基、計三基だけである。

この補陀落渡海碑と並ぶ板碑二基の左端に、永禄四年(一二六七)銘の宝塔塔身がある。

平成九年三月 玉名市教育委員会

 

 

 

補陀落渡海碑がある稲荷神社ですが、実は稲荷山古墳の上に建っています。ただし、石碑の碑文にも記載されていますが、寿福寺の境内とするため削平したりしたため、いまとなっては外見上これが古墳だと判別できる人はほとんどいないと思います。(寿福寺は明治の廃仏毀釈により廃寺となりました。)

 

寿福寺は、このときの補陀落渡海を行った3人の渡海僧である、弘円上人(下野国)、善心上人(駿河)、道円上人(遠江)が身を寄せたお寺でもあります。そのあと、松の木川から出航しました。

 

史跡 稲荷山古墳

西暦六世紀頃この地に全長百米を超える玉名最大の前方後円墳が営まれた。この地点より東が後円部で西が前方部である。

後円部は中世寿福寺の境内となって削平されたので明らかでないが、前方部は葺石に覆われ、朝顔型を含む埴輪円筒列が二列めぐっていた。

縄文式時代の貝塚が南一帯にあり、弥生式末期の竪穴住居址が古墳の下から発見された。

また、奈良時代には立願寺瓦と同一の瓦を持つ薬師堂がその前方部に建立された。鎌倉時代大野荘の鎮守繁根木八幡宮が移建され、寿福寺はその神宮寺となり、室町時代には末社の稲荷堂がこの地にあった。

ここに並ぶ古墳碑は寿福寺境内にあったもので、特に永禄十一年(一五六八年)の板碑は観音の浄土である補陀落山へ入水往生し永遠の安楽を求めようとした熱烈な信仰を示す補陀落渡海碑で全国に珍しいものである。

昭和三十五年都市計画のため古墳の現状を変更するに当り学術調査を行い、諸事実を明らかにすることができたので、ここに碑を建訤する次第である。

昭和三十七年六月 玉名市

 

 

この補陀落渡海の習慣は江戸時代まで続きますが、末期になると、希望者がいなくなったため、すでに亡くなった人を流すという水葬の形に変わっていったそうです。

 

玉名ラーメンと、高瀬商店街

 

玉名にきたらラーメンば食べんといかんでしょ!ということで・・・。

 

近くのガソリンスタンドのお兄さんをつかまえて、おすすめのラーメン店を聞き出しました。それがこちら、千龍さんです。

 

 

焦がしニンニクと海苔、中細ストレート麺、濃厚豚骨スープが特徴となります。熊本ラーメンよりは細麺ですね。この年になると豚骨スープはなかなか重かったりもするのですが・・・、しかしとても美味でございました。

 

玉名ラーメンは、じつは熊本ラーメンのルーツとされています。かつて国鉄高瀬駅そばで営業していた中華そば店「三九」がその玉名ラーメンの元祖となるお店なのですが、ここの人気を聞きつけた熊本市の人たちが味に感銘を受けて、熊本市で提供されるようになったのが「こむらさき」「味千ラーメン」「松葉軒」といったお店だからなのです。

 

さらにいうと、三九はもともと久留米で営業していましたので、玉名ラーメンのルーツは久留米ラーメンということになるかと思います。

 

 

人気のお店らしく、待機用のテントが・・・

 

 

ラーメンで腹ごしらえしたあと、高瀬裏川の散策をしまして、そこから高瀬商店街へはいっていきました。まずは高瀬倉から。

 

 

高瀬蔵は、猿渡家から市に寄贈をされ、現在では玉名商工会議所が管理をしている多目的ホール兼飲食施設です。商店街の中核施設として位置づけられているそうです。

 

 

正面から見た高瀬蔵。飲食店としては居酒屋やインドカレー専門店などがテナントとして営業しています。多目的ホール(200名収容)ではいろんな行事が行われているそうですよ。

 

 

商工会議所が管理しているだけあって、玉名物産コーナーがあったり、観光パンフレットが置かれていたりします。下には明治当時の商家の名残りで、トロッコレールの跡が残っているのが実に面白いですね。

 

 

 

高瀬蔵を出たあと、商店街をねり歩きます。明治や昭和初期の頃の建物をそのまま生かしたようなお店が多くていいですね。

 

ここ柳屋茶舗は4代にわたってお茶屋を営んでいらっしゃいます。ここの会長さんが、高瀬裏川筋を愛する会の会長さんだったかと思います。

 

 

ここも古くから酢屋をいとなむ荒木直平商店。さまざまな酢を販売されています。

 

 

裏川沿いに明治8年に建てられた離れ”菖蒲庵”には、西南戦争のさいに征討総督有栖川織仁親王がお泊まりになられたということです。菖蒲庵も特別に見せていただいたのですが、うっかり写真を撮り忘れてました・・・

 

 

そのかわりに、見事なひな飾りの写真をば。

 

 

ちょうど時期だったので、花しょうぶ祭りのポスターが至るところに貼られていました。

 

裏川散策に来られたら、高瀬商店街を見ずに帰るはもったいないですよ!もちろん玉名ラーメンもぜひ食べてかれてくださいね。

 

高瀬裏川花しょうぶまつりと、石橋群

 

玉名での初夏の納涼イベント、高瀬裏川花しょうぶ祭りが今年も開催されました。平成29年でもう27回目にもなるんですね。今回はイベント開催前に、事前調査に来ました。花菖蒲は約6万5千本といいますから、かなりのものですよ。

 

 

訪問したのが5月24日で、イベント(5月26日~)の2日前だったため、花菖蒲はまだ、ぽつぽつと咲いているものがあるかな、くらいでした。アイラトビカズラも開花が遅かったですし、今年は全体的に花の開花が遅いのかもしれません。

 

 

本題にはいるまえに、玉名の地名の由来を軽くご説明しておきますと、日本書紀では「玉杵名邑」(タマキナムラ)との記述があるようです。和名抄には「多萬伊名」(タマイナ)との記述があり、天満宮託宣記(太宰府天満宮)には「玉井名」とあるようです。ここから、いまの「タマナ」という呼び方に変遷していったようです。(玉名市ホームページ「玉杵名の歴史」より)

 

 

江戸時代からある歴史ある石橋などもたいそう見事ですし、なにより水辺をきれいな花を見ながら散策するのは、心が洗われるようですよ。

 

7つの石橋からなる高瀬裏川石橋群のうち、高瀬眼鏡橋は県指定重要文化財となっています。

 

 

秋丸眼鏡橋。天保3年(1832年)に造られた、熊本県でももっとも古い部類にある石橋です。熊本県の石橋として最も有名な「通潤橋」よりも、さらに22年も古いものです。(ただし、いまの姿は裏川河川局部改良事業に伴い、解体・移築されたものです。)

 

水流調節を行う分流板を備え、洪水時の逆流による冠水から畑を守る役割を果たす、技術的にとても秀でている珍しい橋となります。

 

 

風情ある石畳に、苔むした石垣・・・この風情がたまりません。夜間はライトアップされて、また違った美しさが際立ちます。

 

 

もっとも幅が広い土戸橋。

 

上流部には、周辺商家の石垣に合わせ、当時の商人達が、荷物の搬出入のために築いた石橋群を見ることができる。この石橋のいくつかには、橋台に荷車用の車溝がほられており、当時の商人の知恵と工夫を見ることができる。(案内板より)

 

 

小崎橋。

 

 

小崎橋。車溝がついているのがわかります。人がすれ違うのがやっと、荷車などは交互に通さないと無理ですね。

 

 

酢屋橋。

 

 

酢屋橋。車溝はなく、中央がくり抜いてあるのがわかります。橋によって作りが違うのが面白いですね。

 

 

高瀬眼鏡橋。嘉永元年(1848年)、町奉行の高瀬寿平らによって架けられました。

 

 

高瀬眼鏡橋は歩行者専用道路として、いまでも機能しています。

 

 

お祭り期間中は、コンサートの開催などもあり、毎年20万人がおしよせるイベントとなっております。高瀬地区では西南戦争の遺跡なども多く存在しますので、お祭りのついでにいろいろ歴史的史跡を見て回りたい、という方は、観光ガイドタクシー「加来(かく)タクシー」をご利用くださいませ。

 

高瀬船着場跡~俵ころがし場

高瀬大橋

 

玉名市の高瀬船着場跡を、今回はご紹介いたしますね。古くは高瀬津と呼ばれており、南北朝の時代にはすでに港としての体裁は整っていたそうです。加藤清正の時代になると、河川の治水工事と米の集積場としての大規模な整備を行い、交通の中心として、重要な港として栄えました。

 

 

その後、細川忠利公により高瀬は肥後五ヶ町に指定され、町奉行所や税関、造船や建設の役所、海軍などの重要施設なども置かれるようになりました。

 

玉名市指定史跡 高瀬船着場跡

加藤清正は天正16年(1588年)肥後入国後、高瀬川(菊池川)堀替工事を天正17年~慶長7年(1589~1602年)に行い、この地に菊池川流域産米の集積、大坂(阪)への移出のための米倉(御蔵)と港を造った。次代の細川氏は更に施設の整備拡充に努め(天保12年~1841年頃)、年間24万俵に及び藩米を移出する藩内第一の拠点としていた。

「御蔵」は西南の役で焼失したが、俵ころがし場や揚場は往時のの港がしのばれ、玉名市の近世歴史を知る上で貴重なものである。(玉名市教育委員会)

 

 

米の移出に用いられた俵ころがし場(新渡頭)です。坂を下りきったところにある出っ張りが、俵受けです。

 

 

俵ころがし場を上から見たところ。石はとてもつるつるしていて、この日は雨天だったこともあり、歩いて上ろうとしたら滑って転びそうになりました。

 

 

図説。点線の四角は、西南の役で焼失した御蔵の想定される配置図です。現在は御蔵の名残を残すものは何もありません。

 

 

かつては船着場としてにぎわったようですが、いまではこの周辺は低層住宅地帯で車通りも少なく、とても静かなものです。

 

 

俵ころがしを市街方面から見に来ようと思うと、鹿児島本線の鉄橋の下をくぐることになります。

 

この鉄橋の橋脚部に使われているレンガの積み方を、フランドル積みといいます。長手と小口の煉瓦が交互に積まれるのが特徴で、明治初期まではこの積み方が一般的でした。その後はイギリス積みのほうが堅固であるとして、イギリス積みが主流になってきます。このように、レンガの積み方1つでも、造られた年代を推定することができます。

 

 

高瀬裏川筋歴史散策マップ

高瀬地区は、かつて水運の発展から、上流域で収穫された高瀬町(菊池米)の集積地として発展してきた町である。現在も当時の御蔵や、神社、史跡等が多く残り、情緒ある古い町並みを目にすることができる。高瀬は、南北朝の時代より高瀬の津(たかせのつ)と呼ばれる軍港があった町であり、菊池一族が、朝鮮との交易を始めたことから、物資の集散地として発展してきた。朝鮮の史書である「海東諸国記」や明の書物である「図書編」にも”達家什(たかせ)”として紹介されている。

 

 

玉名は、西南の役の舞台ともなりました。高瀬大会戦といいまして、この戦いで西郷隆盛の末弟である西郷小兵衛が戦死しています。高瀬船着場跡から歩いて行ける距離にありますので、あわせて訪れられるとよいかと思います。