宇土マリーナ~大王のひつぎ実験航海

 

国道57号沿い、御輿来(おこしき)海岸のそばにある、宇土マリーナを訪れました。

 

※御輿来海岸は、景行天皇が九州をご訪問なされた際に、海岸線があまりに美しいので御輿をとめて見入っておられた、という伝説から、その名がついています。「日本の渚百選」・「日本の夕日百選」に選定される景勝地です。

 

 

宇土マリーナの施設設備の1つ、門型30トンクレーン。宇土マリーナでは、船舶を係留できるドックや、モーターボート200隻を保管できるボートヤードなどを完備しており、熊本県でのマリンスポーツのメッカとなっています。

 

道の駅宇土マリーナと、うと海の駅(宇土マリーナ)は敷地的につながっていまして、一般的には全体として宇土マリーナと認識されていると思いますが、厳密には道の駅と海の駅がくっついた形になっています。(海の駅とは、国土交通省に登録された船舶係留施設のことで、宇土マリーナにも多数の船舶が係留されていました。)

 

 

クラブハウス(宇土マリーナハウス)。2F端はわたしの記憶ではレストランだったと思いますが、階段にはチェーンがかけられ、壁にあったレストラン名もなくなっていますので、撤退したのでしょうか・・・。こちらに、合宿所や研修施設などがあります。

 

 

宇土マリーナハウスは、1998年吉松秀樹氏設計により造られましたが、くまもとアートポリス参加プロジェクトのために独特な形状をしております。

 

 

宇土マリーナには、石造りの前衛的なアート作品がいくつもありまして、それらの作品群をながめつつ、海岸沿いをただ散歩するだけでも楽しめますよ。

 

 

宇土マリーナに、このような石棺が展示してあるのに気づいている方は、きっとほとんどいないと思います。目立つ場所ではありませんからね。

 

これは、大王のひつぎ実験航海事業で造られた、馬門石(まかどいし)製の復元石棺でして、重さは約7トンあります。馬門石は宇土でしか産出されません。

 

 

この馬門石(阿蘇ピンク石)が、歴代天皇のひつぎに用いられているのですが、こんな重いものを、どうやって宇土から800kmも遠く離れた近畿地方の大王の墓墳までに運べたのか?考古学的な謎として長年、考古学者を悩ませました。

 

 

ひつぎを運ぶ台船。航海実験のため、蓋用と、身用の2隻が造られました。

 

古代船を復元し、実際に熊本から大阪まで石棺を運搬してみよう、というのが、大王のひつぎ実験航海事業です。馬門石製(7t)の石棺を復元した古代船に載せ,有明海から関門海峡を通って瀬戸内海を経由し,最終的には大阪湾へと運び込む実験航海が行われました。

 

 

2005年7月24日に宇土マリーナを出航し、22の港に寄港して、34日かけて大阪南港に到着し、大王のひつぎ実験航海は無事成功しました。

 

宇土マリーナには、天草方面への長時間ドライブの休憩で訪れる人が多いと思うのですが、大王のひつぎもご覧になってみてはいかがでしょうか。こんな重いものをよく木船で・・・と、きっと驚かれると思いますよ!

 

天草ビジターセンター

 

雲仙天草国立公園のインフォメーションセンターである、天草ビジターセンター

 

天草地方特有の植物や、自然環境について学ぶことができる施設です。

※本来は撮影禁止ですが、取材ということで、特別に係員さんに許可をいただきました。

 

 

代表的な天草特有の生物としては、やはりハクセンシオマネキ(絶滅危惧種)でしょう。

 

体長2cmほどの小さいカニで、松島町永浦島の干潟でよく見られ、4~10月頃の暖かい時期が見頃と言われています。6~8月頃の繁殖時期には、干潮時に愛らしい求愛ダンスを見ることができますよ。

 

 

天草陶石として知られる、変質流紋岩。流紋岩質岩脈が熱水変質作用により陶石化したものとされています。日本で産出される磁器原料の8割を占めるそうですよ!

 

 

天草各地で見られる石の分布。

 

 

大矢野町の特産品である、天草砥石が販売されていました。いまや資源枯渇により、多くの産地で天然砥石の採掘が終了していますので、貴重なものです。

 

現在、世に出回っている砥石のほとんどが、酸化アルミニウム及び炭化ケイ素を主原料とする人工砥石になっています。

 

 

天草の干潟のひろがりを示す模型。

 

右下の高杢島(たかもくじま)は、別名「天草富士」といわれ、引き潮のときには歩いて登ることができます。

 

 

船の模型。

 

 

展望休憩所では、天草の海岸をながめつつ、軽食を取ることができます。

 

さまざまな天草のお土産を買うこともできるほか、シモン茶の試飲もいただけますよ。また、ここでしか買えない、天草関連の書籍が販売されています。

 

 

自然の風景を生かした、記念撮影用のブースもありますよ。

 

小代焼ふもと窯~経産省指定伝統的工芸品

 

細川家の御用釜として生まれ、400年続いてきた、熊本県を代表する焼き物「小代焼」。「小岱焼」とも表記され、その名から推察されるとおり、「小岱山」の山麓で産出される材料を使っている焼き物です。

 

荒尾町や南関町をはじめとする熊本県北部で、さまざまな特徴の小代焼が作られています。共通する特徴としては、鉄分が多く含まれる粗めな陶土を、茶褐色の鉄釉で覆い、灰釉を流しかけるというもの。大胆かつ奔放な風合いが魅力です。

 

 

 

 

訪問時、陶工・井上尚之さんが作陶中でしたが、アポもなく突然見学にきた私たちを見て、わざわざ手をとめて熱心に説明をしてくださいました。

 

「なんでも聞いてくださって結構ですよ!」と、陶器づくりに素人な私たちの素朴な疑問にも丁寧に対応してくれ、作業している姿も作業場も自由に撮影してくださいとのこと。訪問時はお世話になりました。

 

 

皿に絵付けをしているところを、拝見させていただきました。まず、全体に柄杓で灰色の釉薬を流しがけします。

 

 

次に赤褐色の釉薬でデザインをいれていきます。お皿の形を作ってからじゃなくて、真っ平らな状態で絵付けをするんですね。

 

 

絵付けが終わり、窯で焼かれるのを待つお皿たち。窯では何千個という焼き物を一気に焼き上げるとのこと。

 

 

昔ながらの、薪を大量に使う「登り窯」にこだわっておられるので、燃料の薪代がかさむため、1個でも多く焼かないといけないんだそうで・・・。

 

 

連房式登り窯。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本に連れてこられてきた朝鮮人陶工からもたらされた技術と言われています。

 

内部温度が1300度にも達するため、壊れることも多く、補修しながら使い続けているんだとか。

 

 

連房式登り窯は、窯がいくつも連なっているような形状になっていますが、熱を伝えるための小さい穴があいているそうです。こうやって外から覗いた感じでは、熱を伝える穴の存在は確認できず・・・。あまり大きな穴が空いているわけではなさそうです。

 

 

店舗2階では、さまざまな小代焼の名品の数々が展示されていました。

 

 

その中でも、目玉となる作品がこちら。天皇皇后両陛下様ご注文(平成12年)の、46cmの大皿です。一方的に献上したのではないのですよ。

 

何枚か焼いたうち、もっとも出来映えの優れたものを、天皇陛下にお渡しされたとのことで、これはそのお渡ししなかったもののうちの1枚です。秋篠宮ご夫妻もご来店なされたこともあるとのことで、皇族からも小代焼が優れた焼き物であると認めてくださっているものと思われます。

 

 

もちろん店舗ではふもと窯で作られたものを買うことができます。小代焼のビールジョッキなんてのもありましたが、これは内側にだけ釉薬がかかっていないのが特徴で、ざらざらした表面がビールの泡立ちをよくしてくれるんだとか。

 

 

焼き物の好きな人だと、窯の見学や資料館の見学、買い物などで、余裕で1~2時間はかかるんじゃないでしょうか・・・。加来タクシーでは、焼き物好きの方のためのツアーなども企画できますので、お気軽にお声がけくださいね。

 

祇園橋~日本最大の石造りの桁橋/天草島原の乱・激戦地

 

石造りの桁橋では国内最大とされるのが、天草市の町山口川にかかる祇園橋です。しかも珍しい多脚式、日本百名橋にも選ばれています。

 

 

国指定重要文化財 祇園橋平成9年12月3日指定

この石橋は、天保3年(1832年)町山口村庄屋大谷建之助が発起し架設したもので、祇園神社の前にあることから、祇園橋と呼ばれています。石造桁橋では日本最大で、長さ28.6m幅3.3mあり45脚の石柱により支えられています。下浦村(現下浦町)石屋の辰右衛門により建造され、地元の砂岩が使用されています。

 

この付近は、寛永14年(1637年)11月 天草の乱で、天草四郎の率いる宗徒軍と、富岡城番代三宅藤兵衛の唐津軍とが激突した場所です。両軍の戦死者により川の流れは血に染まり、屍は山を築いたと伝えられています。

 

毎年、10月の第4日曜日には殉教祭が催され、宗派を超えて御霊の供養が行われています。

 

熊本県観光課の案内文から引用

 

 

多くの橋脚で石橋が支えられる構造になっています。

 

 

国指定重要文化財「祇園橋」の碑。

 

20年以上前には、祇園橋のたもとに南蛮えのきという樹齢300年の榎がそびえたっていて、祇園橋や祇園神社とあいまって、見事な景観を有していたということですが、老朽化により倒壊の危険がでてきたため、平成九年に南蛮えのきは伐採されてしまいました。

 

 

天草の乱激戦地之跡の石碑。

 

天草・島原の乱が起こっていた時代には、まだ祇園橋はありませんでした。(乱後、200年たってから祇園橋が作られました。)

 

 

実際に渡ってみますと、石と石のすきまから川が見えるので、ちょっと怖かったりします。

 

 

町山口川の

流れせきとめし

殉教者の

むくろ数百千にして

名をはとどめず

德壽

 

 

祇園橋のそばには、真新しい祇園橋公園が整備されていました。

 

 

橋の近くには地元の郷土史家のかたのご自宅があり、さまざまな石碑がところ狭しと置いてありました。

 

 

この近辺には天草島原の乱にまつわる史跡が多数密集している地域になりますが、記事が長くなりすぎますので、つづきは次回以降にもちこします。

 

南蛮寺跡

 

キリスト教伝来以降、日本各地に南蛮風の教会堂がたくさん建てられました。残念ながら、徳川幕府の禁教政策により破壊され、現存するものは1つもありませんが、日本人の大工が建てたこともあり、仏教寺院風の建物だったと言われています。

 

 

天草市上津浦には南蛮寺跡とされる史跡がありますが、現在は同じ場所に曹洞宗寺院である正覚寺が建っています。

 

南蛮寺は天草五人衆のひとり、上津浦種直こと、ドン=ホクロンが建立したといわれています。最盛期は3500人を超える信徒が、上津浦城主の庇護のもとにキリシタンに帰依し、宣教師もそこに駐在していたそうです。

 

 

昭和60年の本堂改修工事のさいに、床下よりキリシタン墓碑が多く見つかり、ここが南蛮寺跡であったことがわかりました。

 

 

かまぼこ型の墓碑には、干十字とIHSの文字が見えます。

 

IHSはイエズス会の略紋章で、「イエス」をギリシア語で表記したときの「Ihsouz Xristoz」の最初の3文字をとっているそうです。

 

IHSが刻まれているキリシタン墓碑は日本に3例しか確認されていない珍しいものです。

 

 

上津浦南蛮寺とキリシタン墓碑

 

天草五人衆に列する豪族上津浦種直が、キリシタン宗門に帰依し、洗礼名ドン・ホクロンを名のったのは、宇土城主ドン。アウグスチノ小西行長に服属していた天正十八年(一五九〇)のことである。かくしてこの地には、南蛮寺が建立され、全領民の間に信仰の火が燃えひろがった。

 

しかし、慶長十九年(一六一四)徳川家康のバテレン大追放令により、マルコス・フェラロ神父が、救世使天草四郎の出生を予言した「末鑑の書」を残してマカオに去り、南蛮寺は破壊されてしまう。

 

しかし寛永十四年(一六三七)上津浦古城を前進拠点として天草の乱がおこり、近郷近在は荒廃をきわめる「亡所」と化してしまった。

 

乱平定後、天草の再建策をすすめる名代官鈴木重成は、仏教による邪教根絶と民心安定を念願し、南蛮寺跡に圓明山正覚寺を創建した。正保三年(一六四六)のことである。以来、三百三十九年の歳月をけみした昭和六十年一月十七日、住職亀子俊道師が大改築のため本堂を解体したところ、ここに展示する扁平型、自然石型、かまぼこ形、以上三様式のキリシタン墓碑基が、その床下から出現したのである。

 

かもぼこ型二基の正面には、イエズス会の略紋章を示す「IHS」の文字と十字架がきり刻まれている。十字架はいわゆる干(かん)十字。その左右には人名と没年月がみられれう彫込みを有するが、のみか何かで人為的に削り取られ判読困難である。

 

それでも、ながいながい眠りから醒めたキリシタン墓碑は、見る者に、偉大だった天草の世紀を語りかけてやまない。(墓碑の説明文から引用)

 

 

正覚寺のナギ(天草市指定文化財・市-165、平成24年7月2日指定)

 

キリスト教宣教師コエリヨが植え付けたといわれるため、南蛮樹とも呼ばれる樹齢400年のナギの木。まっすぐに天に伸びた姿がとても美しいです。

 

 

正覚寺山門。

 

参道はわりと長く、足場も悪いため、ご来場の際は、山門脇の道からさらに上に登り、直接境内内に車を入れると楽ですよ。

 

天草四郎ミュージアム

 

天草パールラインをドライブしていますと、道の駅・上天草さんぱーるの辺りで、小高い丘の上にある教会状の建物が目につくと思います。気になってはいるものの、入ったことがない人が多いのではないかと思います。

 

今回はその、天草四郎ミュージアムをご紹介させていただきます。最近、施設名称が天草四郎メモリアルホールから変更になりました。

 

 

天草四郎ミュージアムの四郎像展望所から、さんぱーるを見下ろしたらこんな感じ。

 

1637年10月、苛政や弾圧に耐えかねた天草・島原の人々が、一斉蜂起しましたが、その一揆軍の最高指導者が天草四郎(本名・益田四郎)でした。そのとき弱冠16歳でした。その彼が生まれたのが、この大矢野でした。

 

 

四郎像展望所にある、殉教天草四郎之像。

 

天草四郎はさまざまな奇跡を起こしたと言われています。天から鳩をまねいて手の内で卵を産ませ、それを割って聖書を取り出したり、盲目の少女に触れただけで視力を回復させたとか、雀をとまらせたままの竹の枝を折り陸を歩くように海上を歩くなど・・・。おそらくは、周囲の大人たちが、一揆軍総大将たる四郎を神格化するために作り出した逸話ではないかとも思われますが、いまとなっては調べようもありません。

 

天草四郎ミュージアムは、島原・天草一揆が起こった背景ですとか、渡来した南蛮文化の影響を受けた当時の様子などを、多数の資料や映像で見せてくれます。(残念ながら館内撮影禁止でしたので、内部の写真はございません!)

 

 

石碑の文章は、改行や句読点がほぼなく、そのままでは読みづらいかもしれませんので、意訳を交えつつご紹介させていただきます。間違っているところがありましたら、ご指摘ください。

 

四郎は姓を益田といい、大矢野の生まれ。長﨑にて神学を学んだ後、郷里に帰って伝道に努める。

 

当時、天草の領主・寺沢堅高と、島原の領主・松倉勝家氏は言語に絶するキリシタン弾圧と極度の苛政を敷いた。その苦しみに堪えかねた両郡の住民は、寛永十四年十月十五日、遂に島原有馬郷に於いて殉教反幕の狼煙ををあげ、十一月一日、大江源右衛門を初め幹部一同は四郎のもとに集い、仕えることを誓う。

 

四郎は森宗意軒等、首脳部五十余人と共に談合島に上陸し、この地に於いて秘策をねり、十一月四日、島原に戻る。

 

折しも天草の風雲急なるを知り、自ら千五百の部隊を率いて、十三日に上津浦の友軍を救援する。ここに至りて両郡の信徒は団結して原城にこもるその数、三万七千。

 

これを包囲するは徳川幕府軍と九州諸大名の連合軍合わせて十二万五千。攻防は激戦を繰り返すも、城固くして陥落させること能わず、寛永十五年一月元旦、幕府軍の首相板倉重昌以下多数の将兵戦死す。

 

松平伊豆守が攻めるが容易に落ちず、性急な攻撃は止めて信徒の兵糧を絶ち、二月十八日、悪戦苦闘、双方の死傷者数万。城が遂に落ち、四郎は城内礼拝堂内に於いて、細川藩士陣佐左衛門の槍にかかり昇天する。年は時に若冠十六歳。

 

残る信徒は大虐殺または猛火の中に飛び込み、或いは城壁より海に身を投じて全滅する。

 

世界史上、比類なき悲劇。天草島原の殉教戦はかくして終われり。

 

思うに希有の人傑、四郎の生涯はまことに壮美短命、あたかも桜が花風に散るような風情があった。

 

春風秋雨三百十八年、静かなる宮津湾内の信徒の丘の上に建つこの銅像を仰ぎ見るとき、感慨が胸を打つものあり。

 

西暦一九六六年九月十日

文書李慈秀

 

 

愛の鐘。以前は四郎像展望所にありましたが、地震の影響により崩れたのをきっかけに、国道から目立つ位置に移設されたようです。

 

 

天草四郎ミュージアム内には、ミケネコオリーブというオリーブ専門店もありますよ。オリーブの木を加工した食器や、石けん、ソフトクリームまで!あまり他で見られない商品がたくさんありますので、こちらも足を運んでみてくださいね。

 

 

2階は瞑想室になっていて、静かな音楽が流れており、椅子に寝そべりながら、瞑想にふけることができますよ。

 

また、映像ホールでは、映画「わが心の天草四郎」を見ることができます。これは、天草島原の戦いをある細川藩士の視点で描いたものです。かつては3Dめがねを用いた、立体視のできる映画だったのですが、数年前から2D映像に切り替わったようですね。

 

蓮華院誕生寺奥之院

 

横綱奉納土俵入りが恒例行事として行われることで知られる、蓮華院誕生寺奥之院を訪れました!

 

真言律宗の「九州別格本山」という位置づけで、僧侶や、僧侶を志す人たちの修行の場所として、玉名市・小岱山の中腹に創建されました。とにかく圧倒されるほど広く大きなお寺で、写経や護摩行といった修行の体験などもすることができます。

 

 

世界一の大梵鐘「飛龍の鐘」と、「五重の御堂」。「飛龍の鐘」は、満願成就を願って、一万貫(37.5トン)の重さで作られました。

 

毎日六時と正午に撞くそうですが、梵鐘祈願(五千円以上)を申し込めば、この世界一の鐘を随時、撞くことができるそうですよ。

 

 

飛龍の鐘の由来

 

この大梵鐘は、京都で造られた世界一の大梵鐘で、昭和52年5月、瀬戸内海を渡り国道を通ってここに納まりました。

 

大梵鐘は、奥之院への六トン車以上は登れない狭い山道を、ご本尊皇円大菩薩様の御霊力と中興開山川原是信大僧正様の真言秘密のご祈祷によって、わだち一つ付けることなく、一時間余りでこの奥之院に参りました。(あたかも飛来したかのように思われたので「飛龍の鐘」といわれています。)

 

 

鎌倉時代に、惠空上人(皇円上人の法孫)が浄光院蓮華院としてこの地に創建し、朝廷より殺生禁断の宣旨をたまわるほどの大寺院でしたが、惜しくも戦国時代に焼失しました。

 

昭和5年に蓮華院が再興され、その後昭和53年、別院としてこの蓮華院誕生寺・奥之院が創建されました。

 

 

護摩堂。火をつけたロウソクを燭台に立て、火鉢に線香をおさめます。柱や壁は上にいくほどススで真っ黒!

 

 

なにしろ広大な敷地ですので参道が長い長い!奥に見える皇円大菩薩の大仏様のところまで行こうと思いましたが、見るところが多すぎて時間切れでそこまでは行けず・・・。

 

寺務所では、さまざまなお神籤や、縁起物のほか、盆栽までが売っていました。

 

 

寺務所には、蓮華院誕生寺奥之院で行われた、奉納土俵入りの写真がいくつも飾ってありましたよ。

 

 

修行場である五重の御堂は、僧侶の修行を体験することができる施設で、入館料が別途必要になります。

 

入館に際しては、体を清めるため、塗香(ずこう)を体に塗り、半袈裟を首にかけなければなりません。本来は見学のため修行の場に足を踏み入れるなどは、本来は認められがたいものかと思いますが、寺院の方はそれを理解した上でなお、修行の場を一般の方に開放し、見せることは意義のあることだと考えておられるようです。

 

 

塔内部は宗教施設の内部ということで、撮影はNG。代わりに、塔から見下ろした景色をご覧いただきます。

 

左端の、壁のない屋根だけの建物が、相撲道場です。昭和55年以来、歴代の横綱がこの土俵に上がってきました。

 

 

柴燈大護摩道場。秋の大祭では、ここで「荘重な仏教絵巻が目の前で繰り広げられる」、とのことです。この上に皇円大菩薩の大仏様があります。

 

 

境内の外には、お土産屋&レストランもありますよ!

 

蓮華院誕生寺と、蓮華院誕生寺・奥之院は、5km以上離れていますので、ご来場の際には混同しませんよう、お気を付けくださいね。(今回は奥之院をご紹介させていただきました。)

疋野神社~疋野長者伝説ゆかりの神社

 

かつて立願寺温泉とよばれた”玉名温泉”の発見にまつわるエピソードをご紹介するため、疋野神社(玉名市)を訪れました。

 

疋野神社は2000年もの歴史があり、延喜式神名帳にも記載がある式内社で、肥後国四座の1つに数えられます。(熊本県の式内社は、阿蘇神社、国造神社、疋野神社の3つのみ。)

 

 

疋野長者御神陵。

 

玉名温泉の由来は、当神社に伝わる疋野長者伝説を読むと、うかがい知ることができます。

 

 

千古の昔、都に美しい姫君がおられました。

 

「肥後国疋野の里に住む炭焼小五郎という若者と夫婦になるように」
との夢を度々みられた姫君は、供を従えはるばると小岱山の麓の疋野の里へやってこられました。

 

小五郎は驚き、貧しさ故に食べる物もないと断りましたが、
姫君はお告げだからぜひ妻にと申され、また金貨を渡しお米を買ってきて欲しいと頼まれました。

 

しかたなく出かけた小五郎は、途中飛んできた白さぎに金貨を投げつけました。
傷を負った白さぎは、湯煙立ち上る谷間へ落ちて行きました。
が、暫くすると元気になって飛び去って行きました。

 

お米を買わずに引き返した小五郎に姫君は
「あれは大切なお金というもので何でも買うことができましたのに」と残念がられました。

 

「あのようなものは、この山の中に沢山あります」 との返事に、
よく見るとあちこち沢山の金塊が埋もれていました。

 

こうして、めでたく姫君と夫婦になった小五郎は、疋野長者と呼ばれて大変栄えて幸福に暮らしました。

 

 

傷を負った白鷺が降り立った「湯煙立ち上る谷間」こそ、玉名温泉というわけですね。

 

御神陵の隣には、長者の泉(福寿の御神水)が置かれています。これがなんと、触ってみると温かい!湧出した玉名温泉をひいているものですから、当然ですね。いただかれる場合は、まずは神様へのご挨拶のお参りを済ませてからにしましょう。

 

 

玉名の中学・高校から奉納された大絵馬も、展示されていました。

 

 

敬神の碑。

 

 

この力石は、途中で置くことなく神社を時計回りに一周してお参りして願掛けをするというもの。試しにいちばん大きいのを持ってみましたが、おそらくゆうに40kgはあるような・・・。これを持って一周は、なかなかハードだとは思います。

 

 

身長をはかれる石柱。七五三参りのときなんかにちょうどいいですね。

 

 

桜や紅葉の名所でもありますし、玉名に訪れたら外せないスポットではないでしょうか。

 

天草コレジヨ館

 

天草に伝来した南蛮文化に存分にひたれる施設としては、なんといっても天草コレジヨ館がお薦めです。

 

日本初の活版印刷による天草本の数々や、それを印刷したグーテンベルクの印刷機、南蛮船模型、西洋古楽器の複製や、天正少年使節団の足取りをたどるビデオなどを見ることができ、16世紀当時の日本人が、南蛮文化にかぶれた気持ちがよくわかる感じがします。

 

 

南蛮船模型。

 

天草・河浦には1591年から1597年にかけて、キリスト教の宣教師を養成するための大神学校、コレジヨ(コレジオ)がありました。コレジヨはポルトガル語で、英語のカレッジにあたる言葉で、学校という意味です。

 

コレジヨはもともと、キリシタン大名たる大友宗麟のお膝元、豊後国府内(いまの大分県大分市)のあたりにありました。ところが府内は豊薩合戦による島津家久の焼き討ちにより壊滅したため、島原の加津佐(いまの長崎県南島原市)に移されました。

 

加津佐のコレジヨも、豊臣秀吉が明国征伐のために名護屋に赴くとの布告を受けて、豊臣家の目の届かない天草に移されたのでした。

 

 

天正遣欧少年使節がヨーロッパから持ち帰った、グーテンベルクの印刷機(複製)。ガチョウの革で作られたスタンプにインクをつけ、そのスタンプで活版にインクをのせていきます。そして、紙を印刷機に固定し、プレスする仕組みです。

 

1597年にコレジヨが長崎に移転したときに、印刷機も長崎に移されました。日本では20年間ほど使われましたが、最終的には宣教師の国外追放のさいに、印刷機ごとマカオに送り返されました。

 

 

グーテンベルクの印刷機により刷られた、グーテンベルク42行聖書。ほとんどのページが42行の行組みであることから、その名がつきました。

 

 

天正遣欧少年使節の衣装。セミナリヨから選ばれた伊東マンショ千々石ミゲル中浦ジュリアン原マルティノの4名が使節となりました。

 

少年使節たちは日本に帰郷するころ、日本では豊臣秀吉による伴天連追放令がでていました。そして、日々強さを増していくキリスト教弾圧のなかで若くして命を落としていきますが、千々石ミゲルだけがのちにイエズス会を脱会し、キリスト教弾圧側にまわったことで知られています。(しかし、最近見つかった千々石ミゲルのものと見られる棺からはロザリオが見つかり、実は棄教していなかった可能性がでてきたとのこと。)

 

 

少年使節たちは西洋音楽も学んできました。日本に戻ったあと、聚楽第にて豊臣秀吉の前で演奏も披露しています。豊臣秀吉はたいへん珍しがり、何度もアンコールしたほどだとか。

 

 

なお、2階はキリスト教やコレジヨとはまったく関係がない、世界平和大使人形の館となっております。

 

日本初の女性代議士である園田天光光氏が、平和の使者である人形を世界中に贈ろうと、国際児童年に世界100か国に各国の大使夫人を通じて一対の市松人形を贈ったことがはじまりで、その返礼で57か国から届いた人形117体がこちらに展示されているとのことです。

 

郷土の歴史と『平和』について学べる施設となっていますので、ぜひみなさん訪れてみてくださいね。

 

大江天主堂

 

キリスト教解禁後、もっとも早く活動をはじめた大江天主堂を今回はご案内いたします。

 

小高い丘に立つこのロマネスク様式の教会は、フランス人宣教師ガルニエ神父が私財を投じて設立したといわれており、昭和8年に完成しました。(翌9年には、前回ご紹介しました崎津天主堂が完成しています。)

 

 

この白亜の建物の建築設計にたずさわったのは、崎津天主堂の建設にもかかわった、教会建築の父こと鉄川与助氏です。日本人の大工がヨーロッパ教会建築の技術を習得し建築したものであり、「天主堂」の作例として、近代建築史上、重要な建物であるとされています。

 

 

パアテルさん(「神父」の意)と呼ばれ、住人に慕われていたという、ガルニエ神父の胸像。贅沢したら人は救えない」が口癖で、つぎはぎの司祭服をまとい、一般信徒と同じ食事をとって質素に生活していたということです。臨終の際には、「墓に金をかけるな。墓をつくる金は病人や困った人に与えてくれ」と厳命したそうですが、慕われていた神父様だけにそうもいかず、信徒は立派なルドヴィコガルニエ塔を作りました。

 

碑文

ルドビィコガルニエ神父様は1892年天草に赴任以来50年、大江崎津教会を兼任、後大江教会主任神父として、生涯を大江の地に埋められた。その間、私財を投じ大江天主堂を建堂し、住民に対しては信者未信者の別なく慈悲をたれ、自らは弊衣を纏い、己を犠牲にしてキリストの愛を実践し信仰の燈を捧げて下された。
 この胸像は30年忌を迎えるに当たり、この偉大なる御功績を讃え、御遺徳を偲ぶと共に後世にその面影を遺し、信仰の精神振起にも資したいと念願し建立したものである。

昭和46年11月26日

 

 

集落を見渡せる場所に作られたルドヴィコガルニエ塔。ガルニエ神父のお墓ですね。

 

ガルニエ神父は、天草に赴任して50年以上、ついに故郷フランスに帰ることなく、生涯を閉じました。祖国からは一時帰国費用なども送られていたのですが、それすらも天主堂建設に投じていたのでした。

 

 

教会敷地内には、ルルドの泉を模したものがありました。フランスにある奇跡的治癒をもたらしてくれる奇跡の泉で、今年になって70例目の「ルルドの奇跡」認定があったことがニュースになっていました。(坐骨神経症に伴う歩行困難をわずらった修道女が、ルルドを訪問後に劇的に回復し、それに対する医学的な説明がつかないとの医師団の判断を受けたもの)

 

 

1907年に発表された九州旅行記「五足の靴」の舞台ともなりました。

 

東京新詩社の主宰であった与謝野鉄幹が、まだ学生であった木下杢太郎北原白秋平野万里吉井勇ら文学青年たちを連れ、九州各地を旅をした足跡を記録したものです。主にキリシタンの遺跡を見聞するための旅行であり、この旅のハイライトが「パアテルさん」こと、ガルニエ神父に会うことでした。

異国情調あふれるこの作品が、明治末期~大正の文壇に「南蛮趣味」の流行をもたらしたと言われています。

 

 

写真工房ひまわりさんの作品展が行われていました。東京から熊本に転居して、活動なされているとのことでした。

なお、12月上旬から1月上旬にかけては、夜間ライトアップが行われる大江冬祭りイルミネーション(電球5万個、17時30分~22時頃)もありますよ。