名水 白川水源

 

白川水源にやって参りました!ここは一級河川「白川(しらかわ)」の源流で、南阿蘇の代表的な湧水の1つ。毎分60トンもの湧水がわきあがっています。

 

「南阿蘇村湧水群」として、環境省の「平成の名水百選」にも選定されています。写真では伝わるのかわかりませんが、水の透明度がすごいです!

 

 

水源に降りていけるように、階段も設けられていますので、水遊びをする家族連れがたくさんいらっしゃいました。夏のレジャーはお金がかかるものですが、こちらですとお金を使わずに親子で楽しめますね。ぜひサンダル履きで来て、白川水源の水の気持ちの良い冷たさを感じてくださいね。

 

 

上で「お金を使わずに遊べる」と書いてしまいましたが、厳密には白川水源の環境を守るための協力金として、ひとり百円がかかります。例えば先日値下げでニュースになっていたレゴランドに行けば、大人6,900円ですから、それに比べたらタダみたいなものですね!

 

 

売店では手ぬぐい等のお土産品や、汲んだ水を持って帰るための専用デザインのペットボトルも販売されています。

 

白川水源の水は自由に持ち帰ることができますよ。

 

 

白川水源にある白川吉見神社国龍大明神(くにたつだいみょうじん)罔象女命(みずはめのみこと)が祀られています。

 

細川綱利公が山狩の際に 「当社は余が領地養田の源神で水恩広大である。速やかに社殿を修造せよ。」と郡代に命じ、造営されたとのことです。

 

 

境内を覆うイチョウやスギの森は、「ふるさと熊本の樹木」として登録されています。なお、「ふるさと熊本の樹木」とは、ふるさとの象徴として地域の歴史と伝説を秘めたふるさと熊本の樹木を熊本県知事が登録することで、県民にこれら樹木が県民共通の財産であると自覚させ、官民で協力し保護していくというものです。

 

 

白川𠮷見神社の由来。かつて熊本県は、白川県と呼ばれていた時代があるわけですが、もちろんその名前の由来もこの白川水源によるものです。

 

 

白川水源内にはレストランや土産物店、アクセサリーショップなども多数ありますので、水遊びをするだけでなく大人も楽しめるスポットとなっていますよ!

 

阿蘇大御神御足跡石

 

江戸時代に編纂された肥後国史に、「白川乾藪堂というところに、阿蘇大御神の御足跡石がある」との記載があるのですが、長らくは、伝承のみが残り、石は失われているのだと思われていました。ところが、平成11年の地元の花見会でその巨石を探そうと盛り上がった結果、言い伝え通りの姿のこの巨石が見つかったのだそうです。

 

ところで、この巨石には女神様のお顔が浮かび上がっているのですが、上の写真のどれが女神様か、おわかりになるでしょうか?

 

 

女神様の部分を拡大してみますね。どうですか?意外なまでに写実的なお顔に見え、視線すら感じましたので・・・、正直なところ、わたしは一瞬ですが、たじろいでしまいました。

 

なお、このお顔の部分、不思議なことに、雨が降っても濡れないということです。

 

 

拡大してもお顔がどこかよくわからん!というかたのために、現地に掲示してある案内看板を掲載しておきます。これだとだいぶはっきりとお顔が確認できるかと思います。

 

 

肥後国史に「四五尺計ノ石ニ両足揃テ深サ六七歩アリ 雨天の節、水溜ル事ナシ不浄ノ人近ク寄レバ崇アルト云」と記されている霊験あらたかな石です。

 

それにしても、後ろの女神様の視線が気になります・・・。

 

 

健磐龍命(たけいわたつのみこと)が、阿蘇の平定と開発を願い、この巨石に立って祈られたのだということです。

 

この岩の上部では、特定の条件がそろうと日の丸現象という不思議な円形が浮かび上がります。その条件とは、前日に雨が降り、翌日に晴れた場合だということです。この日は晴天がつづいている日でしたので、日の丸現象は確認できませんでした。ちょうど、しめ縄に囲まれた中央に浮かび上がるそうです。

 

 

ちなみに女神様がよく見える位置に、拝見台が置かれていました。

 

 

国土開拓の神様で多くの御神徳があり、パワースポットとしても人気となっています。入り口がわかりづらく、わたしも久しぶりに訪ねたら通り過ぎていましたので、訪問される際にはよく地図をご確認くださいね。

 

揺ヶ池(ゆるぎがいけ)

 

西原村のふもと、俵山交流館「萌えの里」の近くに、揺ヶ池という霊験あらたかな名水がございます。直径4mほどの小さな池で、コバルトブルーの水をたたえるこの池は、地元では「おいけさん」と呼び、親しまれています。

 

熊本地震のさいに一時枯渇してしまいましたが、現在は無事に霊水が戻ってきているようでした。枯渇防止で1人20リットルまでと制約がありますが、いまでも自由にお水をいただくことができるため、ポリタンクを片手にお水を汲みに来られる人の姿を見かけることができます。

 

 

大正時代の話ですが、夢枕に立った神様のお告げに従い、こちらの霊水を飲んだり塗ったりしたところ、長年患ってきた足痛が治癒した人がいたということが評判となったそうです。

 

一時は揺ヶ池から万徳集落にかけて、1kmにわたって旅館が建ちならび、たいそうな賑わいだったということです。

 

 

揺ヶ池には二柱の主神がいらっしゃいます。揺ヶ池主之神と、弁財天です。こちらの櫓では弁財天を奉納してあります。

 

 

白蛇様が祭神ですので、拝殿には額縁におさめられた白蛇様が祀られていました。

 

 

白蛇様の抜け殻。とっても長いのにびっくり!

 

 

熊本地震の影響により、熊本県道28号線の一部に通行止め区間がございます。当分は迂回路を利用することになるかと思いますので、事前に通行止め区間をご確認くださいませ。

 

横平山古戦場

横平山・西南戦争両軍将兵慰霊碑

 

桜の季節に、久方ぶりに横平山古戦場を訪ねました。田原坂、吉次峠にならぶ、西南戦争での三大激戦地の1つと言われているところです。二俣台地の南正面に位置するこの横平山を、政府軍が奪取すれば、七本・田原坂突破が容易になることから、この場所を巡って政府軍と薩摩軍の間で争奪戦が繰り広げられました。

 

こちらは西南戦争で倒れた両軍将兵の慰霊碑となっています。

 

明治十年、わが国に巨大な歴史のうねりが起きた。そのうねりは肥薩の天地に満ち、翔ぶが如く北上を開始した。
西郷隆盛麾下の薩軍将兵一万三千人が雪を蹴って鹿児島を雷発した215日」から、日本史上最大の内乱西南戦争の幕は切って落とされた。
一方、このうねりを阻止するため、南下する乃木希典十四連隊長麾下の政府軍と、ここ城北の地で衝突し、陸戦史上類のない激闘が展開された。
この横平山は、かって同胞であった両軍将兵たちが共に義に立ち、大地を血に染め泥にまみれて戦い、そして倒れた西南戦争最大の天王山で薩軍切り込み隊と、政府軍が選りすぐった抜刀隊の激闘は凄惨をきわめ、累々と屍が一山を覆いつくしたという。
歴史は遠くなりつつあるが、ここに両軍の将兵を偲んで鎮魂し、慰霊碑を建立するものである。
(慰霊碑に刻まれている謂書より)

 

 

明治10年3月9日、田原坂・二俣を攻撃中の明治政府軍は、横平山の重要性を知り、1個大隊を差し向けます。この日より横平山争奪戦が繰り広げられたのですが、最大の戦いとなったのが3月15日。朝靄をついた薩摩軍の急襲を受けた政府軍は総員撤退、この報を受けた野津大佐は警視抜刀隊に奪還を命じたのです。結果、奪還に成功しましたが被害甚大で、精鋭をほとんど失い、224名もの戦死者を出しました。

 

現在でもこのように、わかりづらいですが、塹壕の跡が東西にわたり、うっすらと残っています。この塹壕に薩摩軍の兵士が籠もり、政府軍とじつに5~6mの位置で向かい合い、激しい白兵戦が繰り広げられたと伝えられています。

 

 

 

塹壕跡の碑。正直なところ、これが建っていなければ、塹壕跡だと言われても気づかないと思います。この山頂付近では多数の後装式銃の薬莢が見つかったほか、刀の鍔も出土しているとのことです。

 

 

 

昭和48年に、県立公園施設設備の一環として建設された展望台です。玉東町を一望できます。

 

辺田野熊野座神社・粟島神社

 

西南戦争時の銃撃の跡が残るという、辺田野熊野座神社にお邪魔いたしました。705年に紀州本社から勧請されたというのですから、由緒ある神社になります。

 

石造りの鳥居の背後には、天然記念物に指定されていた夫婦杉が見えます。樹齢は不明となっていますが、圧倒される大きさですね!

 

 

薩軍は、本営のあった木留を政府軍に奪われたのち、ここ辺田野に後退しています。4月9日の辺田野攻撃に参加した乃木少佐は、この境内で負傷しました。

 

そのときのことを詠んだ乃木大将(※少佐から昇進してます)の詩碑が、境内内に建てられています。

 

 

【意訳※植木町教育委員会による詩碑解説板から抜粋】

敵と対峙して随分長くなる。この間何度戦闘があったことか。

だんだんと戦場にも慣れ、肝っ玉もすわって大胆になってきた。

弾丸は菜の花畑に雨あられと飛んでくる。

しかし、酒を飲み刀を枕にすれば、飛んでくる弾丸も気にならず、雷のような大いびきをたてて寝てしまう。

 

 

西南戦争時に銃弾を受けたとされる拝殿。

 

 

うーん・・・。石柱に埋まっている、コレがそうではないかなと思いますが、特に解説板で示してあったりするわけではないので、確信はもてなかったですね・・・。チョークで印でもあると助かるのですが。

 

 

壁板のところどころの穴も、銃弾の跡のようでもあるし・・・、弾が抜けてしまっていると、なにが原因で出来た穴かなんて、判断が難しいところではありますね。

 

 

木留の薩軍本営跡からも近いですし、西南戦争関連史跡を巡るのであれば外せない場所ではないかと思います。

 

リゾラテラス天草・天草パールセンター

 

松島のうつくしい風景をながめつつ、リゾート気分で洒落たランチをいただきたいなら、ココ!リゾラテラス天草をおすすめしますよ!

 

 

天草でリゾート感を前面に出した物販施設は珍しく、天草でデートをするとしたら、ランチはここがベストではないかと思います。

 

 

リゾラテラス天草は、シークルーズ乗船場と隣接しているので、松島の間を行き交うクルーズ船をのんびりながめるのも楽しいものです。

 

なお、左手に見えるのは天草五橋の1つ、前島橋(4号橋)。天草五橋のうち最も長い橋で、景色を邪魔しないよう、海面高を低くしてあります。

 

 

イルカウォッチングもここから船がでていますよ!

 

 

リゾラテラスと隣接する施設としては、天草パールセンター、ごっちゃ市場、海中水族館シードーナツなどがあります。

 

パールセンターでは、天草特産の真珠を使った宝飾品を購入することができ、ごっちゃ市場は天草の物産品を販売しているところです。シードーナツはイルカと触れあえる、体験型の海中水族館です。

 

 

天草の楽しいところをぎゅっと凝縮したような施設群になっていますので、ご家族連れで来られても一日中遊べると思いますよ!

 

ありあけタコ街道

 

天草市有明町はタコが特産品なんですが、平成16年度からは商工会が中心になって、「タコによるまちづくり」を進めていらっしゃるんです。

 

道の駅リップルランド(天草市有明町)の前には、このような巨大なタコのオブジェも作られています!タコの足にはいって撮影することができるようになっていますよ~!また、台座に書いてあるとおり、この海岸沿いの国道324号有明区間を「ありあけタコ街道」と名付けられています。

 

 

タコ供養塔「祈りダコ」。タコへの感謝供養のほか、豊漁・海難事故防止といった祈りも込められています。

 

 

兵庫県証海峡の大冷害でタコが死滅した際、天草有明のタコが放流され、危機を救ったのだとか・・・。

 

受験生に天草ありあけのタコを送って「置くとパス」!な、なるほど・・・。

 

 

絵馬をかけるスペースもあります。絵馬は、道向かいのリップルランドで購入することができます。

 

 

タコのモニュメントは、四郎ヶ浜に作られていて、ほんの100mほど歩くと、きれいな四郎ヶ浜ビーチで遊ぶこともできます。四郎ヶ浜の名前のとおり、この場所は天草島原の乱で、天草四郎時貞が上陸した海岸であるとされています。

 

 

タコのオブジェのすぐそばにある、マリア像。惜しまれつつも平成29年11月15日に閉館した、キリシタン民俗資料館、サンタマリア館のものでした。

 

 

右に見える十字架は、天草四郎財宝隠しの十字架のオブジェ。上津浦の山麓の洞窟で見つかった、十字架の表面の黄金を剥がしてみたら、暗号文がでてきたというんですね。これが、300年もの間、天草四郎の軍資金を隠した場所だと思い込まれていたとのことです。

 

 

道の駅有明「リップルランド」。レストランでは、3種類のタコ丼に、タコカレー、タコピラフといった、名産のタコを使った料理をいただけますよ。

 

益城町堂園地区に現れた、断層横ずれ跡

 

熊本地震によって発生した、断層の横ずれがはっきり見てとれる場所のうちの1つです。この畑には布田川断層帯が横断しています。

 

益城町上陳堂園地区の畑なのですが、田んぼのあぜ道がクランク状に折れ曲がっているのが、わかりますでしょうか。これが地震前はまっすぐだったのだと言えば、熊本地震のすごさが分かるのではないかと思います。堂園地区では地震で断層の横ずれが起こり、東西方向に最大2・5メートルずれてしまいました。

 

 

側溝の位置が、手前と奥で、ずれています。もちろんこれも震災前は一直線になっていたもの。

 

益城町と熊本大学などの研究グループが昨年4月にこの活断層を調査していました。この活断層は7300年前から現在まで、大地震を少なくとも2回発生させていることがわかったそうで、2~3千年周期で起こっているそうですので、次に大地震が来るとしても、それは自分たちが生きているうちではなさそうです。

 

 

取材当日、ちょうどテレビ局の取材も来ていました。ここは熊本地震を象徴する場所の1つだからですね。

 

そのため、益城町では、この「畑の断層」を町指定文化財(天然記念物)に指定し、あぜが曲がったまま保存していくことが決まりました。震災遺構として、防災教育に活用したい意向だということです。

 

 

 

こちらは2本の活断層がV字型に出現した(国内初)、谷川地区の民家。玄関先2mくらいのところで、70cmもの地盤沈下が発生しました。断層を保護するために、ビニールシートがかけられています。

 

 

家屋は倒壊することはありませんでしたが、活断層の真上にあった納屋が自宅に倒れかかった状態になっています。

 

こちらの谷川地区の民家も、杉堂地区・堂園地区と同じく震災遺構として町指定文化財となり、天然記念物として保護されています。

 

 

築150年とはいえ10年前にリフォームしたばかり、外観からは無事なので、これで町による解体工事が決まっているなんてもったいないね・・・と、カメラスタッフさんとは話しました。耐震補強を施して資料館にするとか、活用方法はいくらでもあるのに、と思いました。

 

 

地震後、いろんな建物に倒壊防止のつっかえ棒がしてあるのを見ましたが、放牛地蔵にもつっかえ棒がしてありました。

 

恋人の聖地「光のハート」/二俣橋・二俣福良橋

二俣橋

 

熊本ローカルのテレビではたまに取り上げられる「光のハート」が浮かび上がる不思議な橋。美里町の二俣福良渡(ふくらわたし)から二股橋をながめると、タイミングによってはハートが出現するため、「ふたまたなのにハートが見える」と、SNS上でもたいへん評判になりました。

 

 

復旧工事の看板より。ハートの写真は時期はずれのため撮れませんでしたので、こちらを参照ください。

 

熊本震災により二俣福良渡が半壊したため、長らく見ることができない状態でしたが、昨年10月末に復旧工事が終わりました。この、ハートが見えるタイミングですが、10月から2月まで、正午ごろまでの約30分間だけしか見ることができません。(取材時は6月でしたので当然見ることができず・・・。)

 

 

駐車場や公衆トイレなども整備してありますし、こういった洒落たオブジェで恋人同士の気分も盛り上げてくれますから、石橋巡りのみならず、恋人同士のデートスポットとしても、おすすめですよ。ただし、彼女を連れて行くのであれば、訪れる時期と時間帯をくれぐれもお間違えなく!いつでもハートが見えるわけではないですからね。

 

 

なお、この二俣橋・二俣福良渡(ふくらわたし)は、いずれも江戸末期に作られました。川の合流点で直角に交わる兄弟橋というのは、全国的に見ても珍しいものです。これらは中山手永総惣屋・小山喜十郎によって整備されました。

 

なお、釈迦院川と津留川の合流点ということで、この付近には5つの橋が密集しており、二俣五橋と呼ばれています。この写真でいうと、撮影場所は二俣福良渡。右手にかかるのが二股橋。左上に見えるのが年祢橋(奥側の石橋)と新年祢橋(手前の鉄橋)。また、写真におさまってないですが写真左側に、二俣福良渡と平行する形で新二俣橋がかかっています。

 

天草五橋とかと違って、架橋年代がばらばらなのが、面白いところ。この場所からだと、江戸時代から現代にかけて作られた5つの橋がまとめて見えるのです。

 

 

美里町には、石橋が江戸時代に作られた石橋が36基ございます。石橋がお好きなら、ここから南西に20kmほどのところにある、八代市東陽町の石匠館も訪れるといいですよ!あの有名な通潤橋を手がけた石橋の技術者集団「種山石工」の功績を紹介している施設となります。

 

緑川製紙工場跡

 

鮎の町としても知られる甲佐町。毎年、鮎解禁になる6月1日から11月頃まで、「甲佐町やな場」にて、新鮮な鮎をいただくことができます。この日は解禁されたばかり。大通り沿いではないにもかかわらず、多くのお客さんでにぎわっていました。みなさん、毎年恒例のこの時期を楽しみにしていたんでしょうね。

 

もともと肥後藩主加藤清正により作られた水田用水調節の場所でしたが、ここで落ち鮎が捕れるものですから、代々の藩主が鮎を食べにこられる場所として、知られるようになったところです。すなわち、お殿様が鮎料理を楽しんだところですから、地元ではかならず「お」を付けて、「おやな場」と言うようです。

 

 

 

しかし!今回取り上げるのは、同じ緑川の水を使ったものですが、鮎料理を取り上げるのではありません!いや、正直なところ、せっかくだから鮎も食べたかったのですが、時間の都合もありましたので、今回は泣く泣くパスしました。(予約もしていませんでしたしね・・・)

 

この、甲佐町やな場の隅に、ひっそりと緑川製糸場跡の石碑があります。緑川製糸場がこの地に作られたのは、緑川の水質が、繭から製糸を取り出す際に使う水として適していたからだ、ということです。

 

 

横井小楠の弟子である、長野濬平(しゅんぺい)氏により、明治8年、西日本初の西洋式機械製糸工場がこの地に誕生することとなります(富岡製糸工場は明治5年開業)。この長野濬平氏は、九品寺に養蚕試験場を作るのを主導するなど、熊本県の製糸業・養蚕業の推進に尽力した人物。九品寺の養蚕試験場では、西日本初の機械製糸が行われました。

 

緑川製糸場は、東日本が中心であった養蚕業を西日本で発展させることとなった最初の契機となった工場となりました。しかし、機械式製糸の設備は整ったものの、大量生産に対応できるほどには熊本の養蚕業が発展していませんでした。また、西南戦争により蚕の餌となる桑畑が荒廃したり、他の製糸工場の台頭などにより、明治15年に廃業に追い込まれることとなりました。

 

 

長野濬平氏は、緑川製糸場が閉鎖されたあと、明治26年に合資会社熊本製糸を立ち上げることとなりました。そのときの大煙突は、いまでもイオン熊本中央店の駐車場の一角に残されています。熊本製糸はその後、東亜シルクとして、現在では不動産賃貸業などを行っているようです(事務所もイオン熊本中央店の一角にあります)。

 

製糸業というと、農民などがたずさわるイメージですが、実際には明治維新により職を失った士族が多かったようですね。

 

甲佐に鮎を食べに来たときには、この地で熊本の製糸業が発展する礎となった工場があったことに、思いをはせてみてはいかがでしょうか。