老神神社

 

老神神社は、鹿児島の霧島神社を勧請したと伝えられていまして、社殿は人吉藩主であった相良氏により造営されました。創立年代は不明ですが、相良一族が古くから産宮と信仰してきた神社であり、もともとは山深い所に小さな祠があるだけだったそうです。

 

拝殿の右側に繋がっている建物が神供所で、これがあるのが球磨・人吉地方の神社に見られる特徴となります。

 

神供所を備える人吉球磨地方で見られる神社形式

 

図示するとこんな感じです。老神神社の現在の姿は、もともと鍵状の建築物だったものを、近年切り離したものです。現在は桟瓦葺になっていますが、かっては一連の茅葺屋根となっていました。

 

なお、神供所とは、神様へのお供え物を整えるための場所といわれています。

 

茅葺きの覆屋と、その中に護られている入母屋造りの本殿

 

茅葺きの覆屋と、その中に護られている入母屋造りの本殿。建築は江戸中期の1625年頃といわれています。鉄柱で保護されているのは、文化財保護の観点からは仕方がないことですね。

 

本殿は内外ともに漆で塗られており、彫刻に彩色を施されています。江戸時代前期の神社本殿を代表する建築物として、平成2年9月11日に国の重要文化財に指定されています。

 

 

通常は参道をはさんで一対で建てられる石灯籠ですが、こちらは人吉球磨地方では見られない珍しい建て方で、参道の真ん中に建てられています。

 

灯籠は四角、六角、円形が多いのですが、こちらは基礎から笠まですべて八角形になっています。このような八角形の石灯籠は青井阿蘇神社でも見られます。

 

 

この老神神社は西南戦争のときの弾痕が残る神社としても知られていますが、例によりまして弾痕が発見できず・・・。

 

移築したさいに板壁の下半分を取り替えているため、現在では上部に12カ所の弾痕が見られるということです。

 

 

御祭神:瓊々杵命、木花咲耶姫命、彦火々出見命、火照命、火須勢理命、豊玉姫命
例祭日:11月26日
境内社:菅原神社、弁財天社、稲荷神社、淡島神社

 

人吉球磨地方を代表する、江戸時代の貴重な神社建築となります。繊月酒造のすぐ近くですので、酒蔵巡りのときについでにまわれますよ!

 

永国寺(幽霊の掛け軸で有名なお寺)

 

創建1408年と、600年の歴史を誇る永国寺。開山の実底超真和尚が描いたと伝わる幽霊の掛け軸が有名なお寺です。肥後三十三観音の第9番札所でもあります。

 

西南戦争では一時、薩軍が本陣を置いていました。

 

千人塚石塔

 

幽霊の掛け軸だけでも恐ろしいのに、朝鮮出兵の耳塚も境内にあります。手柄として討ち取った敵兵の耳鼻を、塩漬けにして豊臣秀吉に提出していたそうなんですが、その慰霊のために建立されたものだということです。

 

元は門前の千人塚に建てられていたものだとのこと。

 

 

ご本尊は釈迦如来です。明治10年の西南戦争時における人吉市街戦で寺は焼失し、明治24年に再建されました。

 

その後、平成28年に改築されましたので、真新しく、幽霊寺のイメージで訪問すると戸惑いますね。

 

 

 

幽霊の掛け軸(レプリカ)。この幽霊伝説のことをビデオで見ることができます(約10分)。

 

幽霊の由来

慶永十五年(約五百六十年前)相良九代前續公の時代、永国寺開山実底超真和尚の筆といわれている。

 

当時、球磨郡木上郷に知名の士ありて、妾さんという女性あり、不慮の死により成仏出来ず、中有の世に迷い、和尚の法力を頼って、数夜にわたって出現せしを和尚ねんごろに因果の道理を説きつつその姿を描いたと伝えられている。

永国寺住職 記之

 

ある地元の名士に本妻とは別に妾がいて、本妻がその若い妾に嫉妬して長年嫌がらせをしていたので、それに耐えかねて妾が球磨川に入水自殺したところ、成仏できずに幽霊として出没するようになってしまった。それを和尚が幽霊を絵に描き、いかに醜い姿で現世にとどまっているのかを知らしめたそうです。存命中は美しい女性だったので、現世に醜い姿をさらすのが耐えきれないので、どうか成仏させてくださいと和尚に乞うたのだとか。そうして和尚が引導を渡し、無事成仏できたのだそう。

 

 

西南戦争時、田原坂で敗退した西郷隆盛が33日間この寺に本営を置いたのですが、そのときに西郷隆盛が悔しさをしたためた書がこちらだということです。幽霊のビデオでは、こちらの解説もあります。

 

 

幽霊が出たという池。夏は睡蓮が美しく咲き誇ります。

 

8月にゆうれい祭りがあり、そのときだけ幽霊の掛け軸の本物が展示されるということです。

 

金栗四三翁の墓/池部家の墓

 

金栗四三の座右の銘、「体力、気力、努力」。墓地にはこのような石碑が建てられていました。

 

生前、金栗が揮毫した力強いこの言葉。地元のスポーツに携わる若者たちを、大いに奮い立たせたことでしょう。下のほうには、スヤさんが白寿のときに扇子にしたためた短歌も刻まれています。

 

「あたたかき 世の人々に 守られて 白寿となりぬ つつがなくして すや」

 

 

金栗四三が半生を過ごした、思い出の場所を一望できる高台に、この墓所はあります。

 

1983年(昭和58年)11月13日、92歳で亡くなった金栗四三は、妻である春野スヤや、養母である幾江などの家族とともに、この地に眠っています。

 

 

三宅重人という方の立派な墓石もありました。

 

 

金栗四三をはじめ、10人がこちらで眠っているようです。もともとのお墓を立派に建て直されたようですね。

 

 

すこし引いた見上げるアングルから。人工芝を引いてあり、コンクリートで手すりつきの道路を作ってあって、とても立派な墓地となっています。

 

 

金栗四三住家(池部家)のすぐそばにあります。

 

金栗四三住家/金栗四三資料館

 

大河ドラマ「いだてん」で注目を集める金栗四三が、晩年までの50年間を過ごした住居が、一般公開されております(無料)。

 

古い家財道具や衣類も展示されており、生前の生活感が感じられる展示内容となっています。

 

 

入室禁止のため、展示物を間近で見ることはできないのですが、マラソン大会の記念品や調度品などを、ガラス越しに見ることができるようになっています。

 

 

こんな感じで見るわけですね。

 

 

こちらの住居には築120年で、金栗四三とその妻スヤ、池部家の方々が暮らしていました。

 

東京から53歳で帰郷した金栗四三は、1983年に92歳の生涯を終えるまで、こちらの住居で過ごしました。この住居は遺族の方から玉名市へ寄付をされたそうです。

 

 

金栗四三のボタンをかけてあげる、妻スヤ。それはそれは、とても仲睦まじいご夫婦だったようです。素晴らしい一枚だと思いませんか。

 

 

隣接して建っている金栗四三資料館。数々の貴重な写真展示や、メダル等が展示してあります。

 

 

写真展示の数々。いずれもここでしか見ることのできないものです。

 

 

四三愛用の硯。決して割れているのではありませんよ。

 

 

金栗四三の座右の銘、「体力、気力、努力」。石碑などに刻み込まれているのを、よく見かけますが、こちらが原本なのですね。

 

 

1912年ストックホルムオリンピックの出場選手徽章。

 

日本初のオリンピック参加となったこの大会には、陸上短距離の三島弥彦、マラソンの金栗四三の2名が出場しました。当時の文部省は「官立学校の学生が欧米のスポーツショーに出るのはけしからん」と、渡航費用1800円(現在の貨幣価値にすると500万円ほど)の補助を拒んだそう。当時の日本でオリンピックをどう取られていたかが分かるエピソードだと思います。

 

 

金栗四三関連では、いちばん史料関係が充実していると思われますので、おすすめですよ!

 

池部家住家と金栗四三資料館は、どちらもボランティアガイドさんが詳しくていねいに話を聞かせてくれるのに、無料となっているのが素晴らしいです。

 

金栗四三ミュージアム

 

NHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の放送にあわせて、熊本県玉名郡和水町大田黒にて、1年間限定(2020年1月13日まで)で金栗四三ミュージアムが開場しております!!

 

三加和温泉ふるさと交流館の一角に作られており、ついでに買い物や温泉(400円)も楽しむことができますね。

 

 

館長さんと撮影交渉してみましたが、原則、内部は撮影禁止とのこと。受付のところは撮影OKとのことなので、等身大パネルで記念撮影。隣の酒樽は、金栗家が造り酒屋を営んでいたからなのでしょうね。

 

グリコのキャラメルなどの箱に描かれている、ゴールインするスポーツ選手をイメージしたマークがありますが、このモデルの1人が金栗四三なのだそうですよ!(ただし、あくまでも複数のモデルをヒントにして図案化したもので、その中の1人ということになります。)

 

 

入場料600円となりますが、生家記念館の半券があれば480円になります。もしくはJAF会員の方や20人以上の団体であれば、同様の割引を受けることができます。

 

 

受付から内部では、この金栗足袋型ソファーのところだけが撮影OKでした。奥に見えるのは写真撮影用のジオラマです。

 

ストックホルムオリンピックに日本人として初めてオリンピックに参加したとき、日本ではまだ運動靴が普及していませんでした。そのため、東京の足袋店「ハリマヤ」に依頼し、特製の足袋で挑んだといいます。その後、オリンピックで諸外国選手の運動靴を見た金栗は、ハリマヤの協力のもと、ゴム底を厚くし紐で締め上げる現在の運動靴に近い形の金栗足袋を開発しています。

 

 

撮影禁止だったため、文字のみのご紹介となりますが、以下のような展示物がありました。金栗四三の功績を体感できる場所となっておりますので、「いだてん」ファンのみならず、見学に行かれるといいのではないでしょうか。

 

・旧制玉名中学校に通学した様子を当時の校舎とともにマッピングシアターで紹介。

・玉名北高等小学校まで往復12キロの道のりを毎日走って通学する金栗四三をCG映像で楽しめる。

・金栗四三の走るときの歩幅の足形や、現代のマラソンランナーの歩幅を体験できる。

・金栗四三クイズ

 

金栗四三生家記念館

金栗四三生家

NHK大河ドラマ「いだてん」のロケ地にも使われた、金栗四三(かなくり・しそう)生家が、今年1月よりオープンしております。取材日は平日にもかかわらず、ひっきりなしに来場者が訪れてきて、大河ドラマの影響力のすさまじさを体感したものでした。

 

屋根はトタンで覆われていますが、もともとは立派な茅葺き屋根でした。

 

 

金栗四三は、日本マラソンの父と呼ばれ、いまや正月の風物詩となった箱根駅伝の創設者であり、オリンピックに初めて参加した日本人のひとりです。高地トレーニングを日本に持ち込むなど、日本マラソン界の振興に大きく貢献しました。

 

KKウイング(熊本県民総合運動公園陸上競技場、現在は「えがお健康スタジアム」)も、金栗四三の名前から取ったものなんですよ!

 

 

金栗四三に与えられた「学校部屋」。いわゆる勉強部屋のことですが、2畳ほどとはいえ、この時代に子どもが個室を持つことなど希なことでした。

 

四三が高等小学校を卒業するまでの8年間、ここで勉学にはげみました。

 

 

金栗家は代々庄屋をつとめる名家で、9代の又作が造り酒屋を創業し、金栗家はますます栄えたといいます。しかし、四三の父、信彦は胃病を患っており、病弱ゆえに造り酒屋を続けることができず、廃業しています。

 

そのため、かつての繁栄を失い、生活は貧しくなりましたが、長男の実次が村役場に勤めるかたわら畑仕事にも精をだし、家計を支えました。また、病弱な信彦にかわり、実次は四三の親代わりともなりました。

 

 

四三のマラソンの基礎を作り上げたとされる「かけあし登校」が、この生家からはじまっています。

 

実は四三は5歳頃まではひ弱な子どもでしたが、玉名北高等小学校への進学をきっかけに、自宅から学校にかけて片道6kmの道のりを、近所の生徒たちと毎日走っていたそうです。2段呼吸法などのマラソンの基礎も、このかけあし登校で実体験から編み出した方法だということです。

 

 

四三が暮らしたこの生家は、いまから200年前に建てられたと言われています。四三はこの家で生まれ、約14年間をここで過ごしました。

 

 

この生家のほか、金栗四三関連施設としては、今回ご紹介しているこの「金栗四三生家」のほか、「いだてん大河ドラマ館」「金栗四三の墓」「金栗四三の住家」などがあります。ドラマ「いだてん」を見ている人や、マラソンランナーの人は特に、金栗四三の功績にぜひ触れてみませんか?

 

宮崎兄弟の生家(熊本県指定史跡)

 

中華民国初代総統である孫文を支援し、中国革命の協力者として知られる宮崎滔天。彼の兄弟たちもまた、中国革命に理想の日本を見いだし、自由民権運動などで活躍しました。

 

そんな宮崎兄弟の生家が荒尾市により保存され、一般公開されています。

 

 

中国、台湾からの観光客も多いのでしょうか、中国語の案内板が設置されていました。

 

実は、宮崎家が私財をなげうって革命活動の支援をつづけた結果、先代からの財産も底を尽きてしまい、宮崎兄弟の生家は長らく他人の手に渡っていたのでした。これを知った中華民国から、これまでの恩義に報いようと買い戻しの資金を提供されたこともありましたが、そのときは買い戻しに至らなかったようで、最終的には荒尾市が買い戻し、現在では資料館も兼ねて一般公開されるようになりました。

 

 

孫文は日本亡命中のうちの2週間を、この宮崎兄弟の生家で過ごしました。当時は民蔵が家長でしたが、民蔵の蔵書には「土地復権論」にかかわる書物が多数あり、このような片田舎の村にこれほどの本があるのかと孫文が驚き、滞在期間中は読書に没頭したそうです。

 

意外にも辛亥革命には日本人が多くかかわっており、宮崎滔天ほか、第29代内閣総理大臣犬飼毅日本初の右翼団体「玄洋社」総帥頭山満大陸浪人の革命家・山田良政、その弟・山田純三郎など数多くの日本人が、支援者として知られています。

 

 

大正2年3月19日、孫文(中華民国全国鉄路総裁)が鉄道視察を兼ねて、辛亥革命成功のお礼に来日した際、この梅の木を背景に集合写真を撮影しました。

 

樹齢250~300年の白梅で、大宰府より移し植えられたとのこと。現在でも春先には見事に白い花を咲かせるのだそうですよ。

 

 

孫文が宮崎家をお礼訪問したときの様子を再現したものです。

 

「17年ぶりに荒尾に帰ってきて再び見る荒尾の景色に、嬉しい気持ちでいっぱいです。

 

宮崎寅蔵君と亡くなられた兄・弥蔵君は、私に対し兄弟のように親密で、しかもお二人は我が国の革命の為に多いに尽力、協力してくれました。心から感謝いたします。私は信じています。もし日華両国民が私とお二人のような友情を保持できるのなら、両国民間の提携と融和を千万年代に渡り続けられるだけでなく、それは将来の両国の発展と幸福を予知することとなります。

 

私はこの場を借りて、正義人道を重視し、隣国のために尽力する宮崎兄弟のような仁義人士を生んだ荒尾村及び平岡村長、そして村民の皆様に対し、心から感謝と敬意を申し上げます。」

 

 

宮崎兄弟の写真。いちばん下は、植木学校を設立し、熊本協同体を率いた宮崎八郎。自由民権思想をかかげた植木学校を設立したものの、半年で県より廃校を命じられました。西南の役に参戦するため、その旧植木学校の中心人物、平川惟一、宮崎八郎、有馬源内、高田露達で結成したのが熊本協同体で、400名が参戦しました。

 

左上の宮崎民蔵は、農村の貧しさを見て、当時の土地制度に疑問を感じ、土地の平均再分配を目指して土地復権同志会を設立した人物。この土地均享主義は孫文の三民主義にも影響を与えたとされます。こうした思想が私有財産制の否定につながると政府が警戒したことから弾圧を受けるなどして成功せず、63歳で道半ばで永眠しました。

 

右上の宮崎 弥蔵は、欧米列強のアジア侵略に危機感を抱き、中国を中心とした人民主権国家の設立を目指し、世界革命を画策した人物です。そのために自ら中国人になりきって、頭髪を剃り、中国語や中国の習慣を習い、日本国籍を捨てて中国へ渡ろうと考えていたようです。しかし、病弱であったため志なかばで病に倒れることとなりました。彼の遺志は、兄の宮崎民蔵、宮崎滔天らが継いで、孫文の革命運動を支援していくことになります。

 

 

宮崎滔天の妻・槌(ツチ)は、革命家の妻として、生活は困窮を極めたそうです。風呂に使う薪や茶葉にも困るほどで、巡査がお茶を差し入れに来るほどだったとのこと。

 

あるとき、生活の困窮を滔天に訴えたところ、「革命に使う金はあるが妻子を養う金はない、お前達はお前達でどうにかしていけ」と言われたとのこと。そのため、良家のお嬢様だった槌ですが、自分で働くしかありませんでした。石炭販売をはじめたり、牛乳屋をしたり、下宿屋をしたり、白灰焼き、ミシン内職など、いろいろな仕事をしたそうです。

 

 

資料館のほうは撮影禁止でしたので、残念ながら今回ご紹介できませんでした。資料館には宮崎兄弟のほか、孫文と宮崎兄弟にかかわる貴重な史料が多数展示されており、見応えのある施設となっています。日中の平和と友好のために、一度この貴重な遺産を見にいかれてはいかがでしょうか。

 

万田坑跡・万田坑ステーション その4

 

第二竪坑巻揚機室は、明治42年竣工で、竪坑への昇降を行うためのケージ巻揚機が設置されています。

 

ケージ巻揚機は原動機、ワイヤロープ(直径36mm)を巻き付ける巻胴、深度計、安全装置、運転台で構成されており、ワイヤロープが櫓へと渡されていました。

 

 

巻揚機室入口には、石炭とボタの比重を体感できるように、実物が置かれていました。

 

石炭はものすごく軽いんですが、燃料として利用できない岩石・ボタは、ズッシリ重たいです。ボタは利用価値がありませんので、万田坑関連施設の基礎に敷いたりと、建築用資材として用いられたそうです。

 

 

巻揚機室にはいるためには、ヘルメットの着用が義務づけられているとのことで、スタッフの方からヘルメットを手渡されました。

 

 

巻揚機室の中二階に設置されている、万田二坑ウインチです。重量物(機材)をひきあげるためのウインチで、巻き付いているロープは46mm、長さ500mあります。この下方にジャック・エンジンがついています。巻揚機室運転台と、坑口、坑底間で、ベルでの合図や電話などを用いて、連絡を取り合いながら運用されていました。

 

巻揚機の運転は、約1分~1分半かかったそうです。ブレーキは空気圧搾式で、巻揚機室1階に圧搾空気のタンクがありました。

 

 

中二階に設置されている、イギリス製のジャック・エンジン。蒸気発電時代から設置されているものです。

 

 

万田坑竪坑作業信号規定。ベルでの合図に使ったものと思われますが、長さの単位が尺になっています。

 

 

巻揚機室の二階にある運転台。各種スイッチ、レバー、電話機などがあります。

 

 

上の赤字のものが深度計。坑底にあたる深度264mまで目盛りがあるのがわかります。

 

右下のものがロープ速度計。下のは電流計でしょうか。

 

 

巻揚機室2階にある、炭鉱作業員を運ぶためのケージ用巻揚機。中二階にある機材運搬用ウインチよりも、かなり大型です。

 

 

地元の方が、万田坑を世界遺産として残そうと、荒尾市の各所で世界遺産登録を目指そうと呼びかける看板が、各所に設置されていたものです。その努力が実を結び、貴重な産業遺構が失われずこうして見ることができるわけで、感慨深いものがあります。

 

三井三池炭鉱・万田坑の歴史を学びたいという人だけでなく、廃墟見学や工場見学が好きな方も、楽しめる場所ではないかと思います。

万田坑跡・万田坑ステーション その3

 

第一竪坑坑口。採掘された石炭を地上に引き揚げるのと、排水の役割を果たしていた坑口でした。この大きなコンクリートは、当時の第一竪坑櫓の基礎部分で、ここに第二竪坑櫓の倍の幅がある第一竪坑櫓が設置されていました。(昭和29年に解体され、北海道の三井芦別鉱業所の櫓に転用。)

 

閉口後も坑口は金網で覆われているのみで、現在も地下271mの地下まで、竪坑の穴が空いています。地下80m程度の所まで地下水が上がっているため、寒い時期には湯気が見えることがあるそうです。

 

 

昭和初期に建設された、職場という坑内で用いる機械類の修理や、工具の製作を行っていた場所です。

 

 

木造平屋瓦葺(建築面積約162㎡)で、旋盤やドリル盤はベルトを付け替えることで、モーター1台で運用できるようになっていたそう。

 

 

作業台に置かれていた、タイガー手動式計算器。昭和40年頃に定価3万5千円で販売されていましたが、この時代の公務員初任給が21,600円でしたので、いかに高価なものであったかが分かると思います。

 

 

作業台に並ぶ多くの工具も見ることができます。室内にちらばっていた工具類は、名称や用途の調査を行い、できるだけ元の位置に戻すことで、当時の作業状態を再現しているとのことです。

 

平成9年の閉山後は、台風などの影響で屋根が崩れ落ち、建物の軸組が著しく破損していたため、平成21年11月から平成23年10月まで、保存整備工事が行われました。

 

 

万田坑敷地内には、このように至るところに炭鉱鉄道の名残を見ることができます。

 

炭鉱鉄道の本線は、万田坑から大牟田の各坑口を結ぶように、U字形に走っています。そこから枝線が分かれ、炭鉱と主要工場、駅、三池港を結び、鉄道網は最盛期には総延長150kmにも及んだそうです。

 

 

万田発電所跡。大正時代の建設当時は、英国トムソン社製タービン排気発電機(800kw)が設置され、「万田発電所(排気発電所)」として利用されました。

 

電化が進むにつれ、配電所(変電所)として七浦坑への配電も行っていました。

 

 

万田坑ステーションにある全体模型には、現存しないものがいくつかあることに気づきます。前述したとおり、第一竪坑櫓(写真左側の大きいほうの櫓)は解体されたのでありませんし、この4本の煙突、そして煙突に繋がる2つの建物も存在していません。(煙突の土台だけは残っています。)

 

これは発電方法が蒸気から電気に移り変わったためで、蒸気を発生させるボイラー施設(汽罐場)が必要なくなったということです。なお、汽罐場で用いられる燃料には、三池炭鉱産出の石炭だけでなく、筑豊産や北海道産の石炭も使用されました。これは、三池炭が粘結炭であるため、燃やすと罐の中に絡みついて頻繁に掃除をする必要があったので、三池炭以外の炭とのブレンドを行ったとのことです。

 

今回はここまで、次回その4まで万田坑編が続きますが、お付き合いいただければと思います。

万田坑跡・万田坑ステーション その2

 

前回、万田坑の入口から周辺施設のいくつかをご紹介しました。今回はついに、第二竪坑櫓に入っていきますよ!!

 

入口にはトロッコが無造作に置かれていました。

 

 

ちなみに、2014年夏に公開された映画るろうに剣心・京都大火編」のロケ地ともなりました。

 

万田坑ステーションには、斉藤一を演じた江口洋介さんの衣装やサイン色紙も展示されていますので、ファンの方は要チェックです!!

 

 

第二竪坑の入口に置いてあった、坑道作業員が用いたヘルメットとライト、バッテリー。手に取って、重さを実感することができます。

 

 

坑内作業員たちは、このケージ(定員25名)に乗り込んで、約1分間かけて約274mある坑底まで降りていったそうです。

 

ケージの自重は2.8トン、最大積載量1.5トンとのこと。ケージは2台吊り下げられ、一方が上がると他方が下がるつるべ式となっており、1台が地上にあるときはもう1台は坑底にある、というような使われ方であったとのことです。

 

 

第二竪坑坑口。第二竪坑は、石炭搬出用途ではなく、人員昇降および排水、換気の用途として使われました。昭和26年の閉坑以降は、炭鉱坑内の維持管理用として使用されました。

 

竪坑は平成9年の閉山時に、選炭場の土砂により埋め立てられました。

 

 

坑口信号所。当初は坑底とは鐘で合図をしていましたが、大正時代以降はベルや電話に変わっていきました。それでも鐘は予備として残されていたということです。

 

 

坑口信号所にある第二竪坑信号規定と、さまざまな通信装置。ここから坑底や巻揚機室の運転手と連絡を取り合っていました。

 

 

坑口から上を見上げれば、第二竪坑櫓を下から見ることができます。第二竪坑櫓は鋼鉄製で、英国グラスゴー・スチール社や、英国ドーマンロング社の鋼材が用いられていることが、鋼材の刻印から判明しております。

 

 

主脚4本、補助脚2本の柱で構成されていて、ラチスガーター式トラス構造といって、少ない鉄で強い櫓を組むことができる構造になっています。こうすることで、柱に大きな風圧がかからないという利点もありました。

 

 

今回はここまで、その3につづきます。