緑川製紙工場跡

 

鮎の町としても知られる甲佐町。毎年、鮎解禁になる6月1日から11月頃まで、「甲佐町やな場」にて、新鮮な鮎をいただくことができます。この日は解禁されたばかり。大通り沿いではないにもかかわらず、多くのお客さんでにぎわっていました。みなさん、毎年恒例のこの時期を楽しみにしていたんでしょうね。

 

もともと肥後藩主加藤清正により作られた水田用水調節の場所でしたが、ここで落ち鮎が捕れるものですから、代々の藩主が鮎を食べにこられる場所として、知られるようになったところです。すなわち、お殿様が鮎料理を楽しんだところですから、地元ではかならず「お」を付けて、「おやな場」と言うようです。

 

 

 

しかし!今回取り上げるのは、同じ緑川の水を使ったものですが、鮎料理を取り上げるのではありません!いや、正直なところ、せっかくだから鮎も食べたかったのですが、時間の都合もありましたので、今回は泣く泣くパスしました。(予約もしていませんでしたしね・・・)

 

この、甲佐町やな場の隅に、ひっそりと緑川製糸場跡の石碑があります。緑川製糸場がこの地に作られたのは、緑川の水質が、繭から製糸を取り出す際に使う水として適していたからだ、ということです。

 

 

横井小楠の弟子である、長野濬平(しゅんぺい)氏により、明治8年、西日本初の西洋式機械製糸工場がこの地に誕生することとなります(富岡製糸工場は明治5年開業)。この長野濬平氏は、九品寺に養蚕試験場を作るのを主導するなど、熊本県の製糸業・養蚕業の推進に尽力した人物。九品寺の養蚕試験場では、西日本初の機械製糸が行われました。

 

緑川製糸場は、東日本が中心であった養蚕業を西日本で発展させることとなった最初の契機となった工場となりました。しかし、機械式製糸の設備は整ったものの、大量生産に対応できるほどには熊本の養蚕業が発展していませんでした。また、西南戦争により蚕の餌となる桑畑が荒廃したり、他の製糸工場の台頭などにより、明治15年に廃業に追い込まれることとなりました。

 

 

長野濬平氏は、緑川製糸場が閉鎖されたあと、明治26年に合資会社熊本製糸を立ち上げることとなりました。そのときの大煙突は、いまでもイオン熊本中央店の駐車場の一角に残されています。熊本製糸はその後、東亜シルクとして、現在では不動産賃貸業などを行っているようです(事務所もイオン熊本中央店の一角にあります)。

 

製糸業というと、農民などがたずさわるイメージですが、実際には明治維新により職を失った士族が多かったようですね。

 

甲佐に鮎を食べに来たときには、この地で熊本の製糸業が発展する礎となった工場があったことに、思いをはせてみてはいかがでしょうか。