田原坂公園界隈(一の坂公園、田原坂崇烈碑、西南戦争戦没者慰霊の碑)

 

田原坂近辺の史跡をご案内してきましたが、田原坂という坂そのものを今回は取り上げてみたいと思います。この写真の地点が、豊岡の眼鏡橋を通り過ぎ、いまから田原坂をのぼろうとする入り口となります。ここから、官軍が進軍していったわけですね。

 

 

田原坂の入り口近辺のマップです。当時は県道31号(赤部分)も、国道208号(緑部分)も整備されていませんでした。点線部分が、当時の進軍に使われたと考えられるルートになります。

 

 

麓の豊岡眼鏡橋からの標高差は僅か80mの田原坂。一の坂、二の坂、参の坂と頂まで1.5kmの曲がりくねった道が続く。この道だけが唯一大砲を曳いて通れる道路幅(3m~4m)があり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本へは進めなかった。(案内板より抜粋)

 

 

いまではこのように竹林が茂っていますが、当時は飛び交う銃弾で山ははげ上がってしまいました。

 

 

これは西南戦争資料館で特別に閲覧させていただいた資料です。田原坂の森を写した写真と思われますが、木には葉っぱなど残っていないほど銃弾が飛び交っていたということでしょう。

 

 

一の坂には公園が整備されていて、公園付属の広い駐車場も整備されています。

 

 

馬上の美少年像。これが誰なのかは諸説ありますが、田原坂で戦ったすべての少年兵の象徴だというのが通説だということです。

 

 

西南戦争の経緯などを石碑に刻みこんだ、田原坂崇烈碑です。最大の激戦地となった田原坂にて、もし政府軍が負けて、薩軍が北上するようなことになっていれば、日本はもっと大きな災禍に見舞われたであろうということが記されています。

 

 

「鹿児島県は西日本の中でも土地が広く、人々は勇敢でした。そして、西郷隆盛の名声は世間に知られていました。国内の士族には西郷の進退を伺い、西郷に影響を及ぼす者もいました。明治10年2月、西郷隆盛は反乱を起こし、熊本城を囲みました。天皇は大変怒りになられ、軍隊にこれを討たせられました。熾仁親王が征討総督で、陸軍中将山形有朋、海軍中将川村純義が参軍となりました。薩軍は兵を分け、植木、山鹿の両道を抑え、進軍し高瀬に入りました。27日、官軍は高瀬を占領。3月4日には木葉も占領しました。薩軍は退却し、田原坂の要地に陣を築きました。その上、熊本城の囲みも固く、援軍の路も絶たれました。 この田原坂の地は両側が壁のように立ち、小さな道がけわしい所です。薩軍は皆精鋭の兵で、しかも堅固な陣地を築き、そこから狼や虎が吠えて襲うように出撃しました。攻めるのに難しく、守るのに易しい地形の要地に官軍も苦戦を強いられました。  こうして激戦昼夜を問わず17日に及び、ついに薩軍を撃退されました。死傷4千余人、西南の役中に数百の激戦がありましたが、しかしいまだに田原坂のような激戦は他にありませんでした。もしもこの坂を抜くことが出来ないで、薩軍が南関を破り北方に進出したならば、直ちに政府に不満を持った者たちが必ず隙をみて立ち上がり、禍は測り知れなかったでしょう。しかしそんな状態に至らず、すみやかに撃破することが出来たのは、実に田原坂の勝利によります。
ああ、誠に死者の功績は大きく、そのままにしておけない痛ましいことである。
そこで碑を田原坂の坂上に建て、このことを記し、忠烈な戦いを顕彰するものである。
明治13年10月
陸軍大将二品大勲位 熾仁親王撰文竝篆額
陸軍省六等出仕従六位勲五等秋月新太郎書」

「なお、この崇烈碑建立の経過について明治13年9月13日五野保萬日記によると
鹿本郡植木町大字豊岡(田原坂)の山中において、過る10年に、鹿児島の西郷隆盛が事変を起こしたことや、その経過等について大石記すこととなった。
ところでこの石は、~中略~八代港に着船した。  この石は白く、石幅は約1.2m、長さ約4.5m。重量約3,600kg これを運搬することは大変な作業であった。車に乗せ牛15頭、作業人員30名(石工、大工、人夫)が各々作業をして60日を要し、漸く田原坂上に到着した。
来年の3月迄に建立完成の予定である。碑には当時の戦闘の様子を詳細に記載し、将来になってもその当時の状況が判るよう、政府から建立されるものである。国もそうであるように、自分も又碑石建立の経路を、後世の為に書き遺しておく。とある。」
熊本市教育委員会

 

 

これがよくわからなかったんですが、どなたかいわくをご存じないでしょうか。デザインもばらばらなので、どうも別々に地面から引き抜いて、ここに集められて移設されたような佇まいなのですが・・・。

 

 

田原坂を登り切ったところには、広くて見晴らしがよく、気持ちのいい公園が整備されています。ここでかつて大勢の人が死闘を繰り広げたのが信じられないほどです。

 

 

高台になっている田原坂公園からは、西南戦争の各激戦地を見渡すことができます。公園に隣接している田原坂西南戦争資料館の人にお願いすれば、どこでどのような戦いがあったのかを丁寧に教えてくださいますよ。(もちろん、わたくしも西南戦争検定中級持ちとして、自信をもってガイドさせていただきます。)

 

 

西南役戦没者慰霊之碑。国のために命を落とした同胞を思い、手を合わせて弔いました。

 

 

出身別に死者名が刻まれています。官軍、薩軍どちらも分け隔てなく書かれています。

 

 

田原坂は、環境省の指定した九州自然歩道のコースの1つでもあります。

 

西南戦争関連史跡は、見落としがちな小さい戦跡が無数にあり、知識あるガイドの必要性が高い観光エリアとなります。田原坂を徹底的に楽しみたいというかたは、ぜひとも加来タクシーまでご連絡ください。1時間4,000円の貸切料金は、1台あたりの価格になりますから、お友達でお誘い合わせでご利用いただければ、案外安く利用できるのではないかと思います。