熊本協同隊ゆかりの地~植木学校、保田窪菅原神社

植木人民共立小学校跡地

 

わずか半年しか存続しなかった、宮崎八郎たちが開設した植木学校の跡地です。マンションの一角の花壇にひっそりと建っていて、植木町に住んでいても知らない人がいそうなくらいです。昔はもう少し広く残されていた気がするのですが・・・。

 

宮崎八郎といえば、西南戦争のさいに熊本協同隊を率いた人物として有名ですね。打倒・明治政府という目的が同じであるために、熊本県民でありながらも薩摩軍として参戦をしました。この植木学校は、その宮崎八郎や広田尚らで作った学校となります。半年しかありませんでしたが、熊本の自由民権運動のさきがけとなり、また植木学校関係者を中心に熊本協同隊が結成されるなど、その存在感は大きかったようです。

 

 

右手に現在の植木小学校が見えています。

 

植木学校跡

 

ここは明治八年(1875)四月二十六日に開校した変則熊本第五番中学校、通称植木学校のあったところである。もとは山本郡正院手永会所(現在の町役場のような施設)があり、これを改造して校舎とした。

 

同校は宮崎八郎等の熊本民権党が中心となり設立、運営した極めて先進的な学校で、中江兆民の訳によるルソーの「民約論」を経典とした。自由民権主義者の養成所として植木学校の名は高まり、盛時には八〇名近くの若者が在籍していたという。

 

しかし、鹿児島私学校と気脈を通じ、戦闘訓練を行う等したことから、県と反目して補助金を打ち切られ、同年十月末、僅か半年で閉校するに至った。

 

同校の関係者は城北の農民一揆「戸長征伐」を指導、明治十年の西南戦争では熊本協同隊を組織して薩軍に参加し、後には自由民権思想の普及に尽力した。

(平成三十一年三月 熊本市/現地案内板より)

 

熊本共同隊出陣の地(保田窪菅原神社)

 

西南戦争が勃発すると、武装蜂起した薩摩軍に呼応するかたちで、ここ保田窪菅原神社にて熊本共同隊が結成されました。

 

 

熊本共同隊出陣の地

 

西南の役(明治10年)に際し、植木学校を中心にまとまっていた熊本民権党は、専制政府を倒すことでは同じ考えだとして、薩軍に呼応することに決した。明治10年2月20日、同志40名はこの神前に集結して出陣式をあげ、投票で平川惟一を隊長に、宮崎八郎を参謀長にえらび、檄文を読み上げて隊名を「共同隊」と定めた。隊は翌21日薩軍本営に入ったが、隊士はのちに400人をこえた。

(現地案内文より)

 

 

熊本共同隊を率いた宮崎八郎は、西郷が自由民権論者ではないことは分かってはいましたが、ともに明治政府を討伐してから西郷と競って天下を取る、という思いがあったようです。しかし、薩軍は次第に追い詰められてゆき、宮崎八郎は八代の萩原堤で官軍に鉄砲で撃たれて戦死しました。

 

日本を正しい方向に導こうと、命を賭して戦った方々がいたことを、忘れてはいけませんね。