横平山古戦場

横平山・西南戦争両軍将兵慰霊碑

 

桜の季節に、久方ぶりに横平山古戦場を訪ねました。田原坂、吉次峠にならぶ、西南戦争での三大激戦地の1つと言われているところです。二俣台地の南正面に位置するこの横平山を、政府軍が奪取すれば、七本・田原坂突破が容易になることから、この場所を巡って政府軍と薩摩軍の間で争奪戦が繰り広げられました。

 

こちらは西南戦争で倒れた両軍将兵の慰霊碑となっています。

 

明治十年、わが国に巨大な歴史のうねりが起きた。そのうねりは肥薩の天地に満ち、翔ぶが如く北上を開始した。
西郷隆盛麾下の薩軍将兵一万三千人が雪を蹴って鹿児島を雷発した215日」から、日本史上最大の内乱西南戦争の幕は切って落とされた。
一方、このうねりを阻止するため、南下する乃木希典十四連隊長麾下の政府軍と、ここ城北の地で衝突し、陸戦史上類のない激闘が展開された。
この横平山は、かって同胞であった両軍将兵たちが共に義に立ち、大地を血に染め泥にまみれて戦い、そして倒れた西南戦争最大の天王山で薩軍切り込み隊と、政府軍が選りすぐった抜刀隊の激闘は凄惨をきわめ、累々と屍が一山を覆いつくしたという。
歴史は遠くなりつつあるが、ここに両軍の将兵を偲んで鎮魂し、慰霊碑を建立するものである。
(慰霊碑に刻まれている謂書より)

 

 

明治10年3月9日、田原坂・二俣を攻撃中の明治政府軍は、横平山の重要性を知り、1個大隊を差し向けます。この日より横平山争奪戦が繰り広げられたのですが、最大の戦いとなったのが3月15日。朝靄をついた薩摩軍の急襲を受けた政府軍は総員撤退、この報を受けた野津大佐は警視抜刀隊に奪還を命じたのです。結果、奪還に成功しましたが被害甚大で、精鋭をほとんど失い、224名もの戦死者を出しました。

 

現在でもこのように、わかりづらいですが、塹壕の跡が東西にわたり、うっすらと残っています。この塹壕に薩摩軍の兵士が籠もり、政府軍とじつに5~6mの位置で向かい合い、激しい白兵戦が繰り広げられたと伝えられています。

 

 

 

塹壕跡の碑。正直なところ、これが建っていなければ、塹壕跡だと言われても気づかないと思います。この山頂付近では多数の後装式銃の薬莢が見つかったほか、刀の鍔も出土しているとのことです。

 

 

 

昭和48年に、県立公園施設設備の一環として建設された展望台です。玉東町を一望できます。