宮崎兄弟の生家(熊本県指定史跡)

 

中華民国初代総統である孫文を支援し、中国革命の協力者として知られる宮崎滔天。彼の兄弟たちもまた、中国革命に理想の日本を見いだし、自由民権運動などで活躍しました。

 

そんな宮崎兄弟の生家が荒尾市により保存され、一般公開されています。

 

 

中国、台湾からの観光客も多いのでしょうか、中国語の案内板が設置されていました。

 

実は、宮崎家が私財をなげうって革命活動の支援をつづけた結果、先代からの財産も底を尽きてしまい、宮崎兄弟の生家は長らく他人の手に渡っていたのでした。これを知った中華民国から、これまでの恩義に報いようと買い戻しの資金を提供されたこともありましたが、そのときは買い戻しに至らなかったようで、最終的には荒尾市が買い戻し、現在では資料館も兼ねて一般公開されるようになりました。

 

 

孫文は日本亡命中のうちの2週間を、この宮崎兄弟の生家で過ごしました。当時は民蔵が家長でしたが、民蔵の蔵書には「土地復権論」にかかわる書物が多数あり、このような片田舎の村にこれほどの本があるのかと孫文が驚き、滞在期間中は読書に没頭したそうです。

 

意外にも辛亥革命には日本人が多くかかわっており、宮崎滔天ほか、第29代内閣総理大臣犬飼毅日本初の右翼団体「玄洋社」総帥頭山満大陸浪人の革命家・山田良政、その弟・山田純三郎など数多くの日本人が、支援者として知られています。

 

 

大正2年3月19日、孫文(中華民国全国鉄路総裁)が鉄道視察を兼ねて、辛亥革命成功のお礼に来日した際、この梅の木を背景に集合写真を撮影しました。

 

樹齢250~300年の白梅で、大宰府より移し植えられたとのこと。現在でも春先には見事に白い花を咲かせるのだそうですよ。

 

 

孫文が宮崎家をお礼訪問したときの様子を再現したものです。

 

「17年ぶりに荒尾に帰ってきて再び見る荒尾の景色に、嬉しい気持ちでいっぱいです。

 

宮崎寅蔵君と亡くなられた兄・弥蔵君は、私に対し兄弟のように親密で、しかもお二人は我が国の革命の為に多いに尽力、協力してくれました。心から感謝いたします。私は信じています。もし日華両国民が私とお二人のような友情を保持できるのなら、両国民間の提携と融和を千万年代に渡り続けられるだけでなく、それは将来の両国の発展と幸福を予知することとなります。

 

私はこの場を借りて、正義人道を重視し、隣国のために尽力する宮崎兄弟のような仁義人士を生んだ荒尾村及び平岡村長、そして村民の皆様に対し、心から感謝と敬意を申し上げます。」

 

 

宮崎兄弟の写真。いちばん下は、植木学校を設立し、熊本協同体を率いた宮崎八郎。自由民権思想をかかげた植木学校を設立したものの、半年で県より廃校を命じられました。西南の役に参戦するため、その旧植木学校の中心人物、平川惟一、宮崎八郎、有馬源内、高田露達で結成したのが熊本協同体で、400名が参戦しました。

 

左上の宮崎民蔵は、農村の貧しさを見て、当時の土地制度に疑問を感じ、土地の平均再分配を目指して土地復権同志会を設立した人物。この土地均享主義は孫文の三民主義にも影響を与えたとされます。こうした思想が私有財産制の否定につながると政府が警戒したことから弾圧を受けるなどして成功せず、63歳で道半ばで永眠しました。

 

右上の宮崎 弥蔵は、欧米列強のアジア侵略に危機感を抱き、中国を中心とした人民主権国家の設立を目指し、世界革命を画策した人物です。そのために自ら中国人になりきって、頭髪を剃り、中国語や中国の習慣を習い、日本国籍を捨てて中国へ渡ろうと考えていたようです。しかし、病弱であったため志なかばで病に倒れることとなりました。彼の遺志は、兄の宮崎民蔵、宮崎滔天らが継いで、孫文の革命運動を支援していくことになります。

 

 

宮崎滔天の妻・槌(ツチ)は、革命家の妻として、生活は困窮を極めたそうです。風呂に使う薪や茶葉にも困るほどで、巡査がお茶を差し入れに来るほどだったとのこと。

 

あるとき、生活の困窮を滔天に訴えたところ、「革命に使う金はあるが妻子を養う金はない、お前達はお前達でどうにかしていけ」と言われたとのこと。そのため、良家のお嬢様だった槌ですが、自分で働くしかありませんでした。石炭販売をはじめたり、牛乳屋をしたり、下宿屋をしたり、白灰焼き、ミシン内職など、いろいろな仕事をしたそうです。

 

 

資料館のほうは撮影禁止でしたので、残念ながら今回ご紹介できませんでした。資料館には宮崎兄弟のほか、孫文と宮崎兄弟にかかわる貴重な史料が多数展示されており、見応えのある施設となっています。日中の平和と友好のために、一度この貴重な遺産を見にいかれてはいかがでしょうか。